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憲法9条の成立経緯


西   修

1.はじめに

 憲法9条について、その成立過程を中心に論述した著書は、いくつか存する*1。論稿も、数多く存する*2。しかしながら、発案の段階から最終的に9条として成立するまでの経緯を、極東委員会における文民条項導入のための審議状況をも含めて克明に記述した著書・論稿となると、ほとんどないといってよい*3。  政府の説にしても、いわゆる学界の通説といわれる学説にしても、成立の経緯をふまえた9条解釈はなされていない。これはまことに不思議な現象といわなければならない。さまざまの解釈が存在しているのであれば、その成立の経緯を詳細に検証することは、絶対に必要なことである。  多くの学説は、9条の平和主義を強調し、その行きつく先として非武装解釈をとっている。もちろん、9条が平和主義条項であることは疑う余地はない。けれども、私の最近の調査では、182の成典化憲法中149(81.8%)の国の憲法になんらかの形で平和主義条項が取り入れられていることが判明した*4。また1990年以降に制定された84の成典化憲法についてみれば、82か国(97.6%)の憲法に平和主義条項が導入されている*5。このことは、平和主義を強調してのみなされる9条の非武装解釈は、国際的視野に立てば、客観性をもちえなくなることを意味していよう*6。  以上のことから、わが国における9条解釈は、成立経緯や比較憲法的な考察という客観的、実証的研究のうえに立つというよりも、平和主義をどう捉えるかという、すこぶる主観的、観念的な面からなされてきたといえる。  本稿は、9条の成立経緯という側面に焦点をあて、できるかぎり実証的に論述することを目的にしている。なお私自身、この面に関し、これまでいくつかの著述を発表してきたが*7、いずれもやや古くなっている。『第90帝国議会衆議院帝国憲法改正案委員小委員会速記録』(1995年9月発行)、および『第90帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別筆記要旨』(1996年1月発行)が公表されたこと、また私自身の極東委員会における審議状況の調査も一応終了したこと*8、さらに関連の著書論稿が新しく刊行されたことなどにより、憲法9条の成立経緯を再検証してみる必要性を感じた次第である。  本稿が、9条の正しい解釈にすこしでも裨益することができれば、幸甚である。

2.発案者をめぐる謎

 憲法9条は、いったい誰が、何を意図して発案されたのか。幣原発案説、マッカーサー発案説、幣原・マッカーサー意気投合説、ケーディス・ ホイットニー共同発案説、天皇発案説があり、まさに諸説紛々である*9。以下において、それぞれの説とその説を支持する代表的な見解を検討する。

1)幣原発案説

   当初、憲法9条は、マッカーサー元帥によって発案されたものと考えられていた。ところが、当の元帥が、1951年5月5日の上院軍事・外交合同委員会において、同条は幣原首相の発案にかかるものであったと証言した*10。また1962年12月10日づけの内閣憲法調査会の高柳賢三会長の書簡に対する回答においても、幣原首相が発案したものであることを明確に述べ*11、さらに1964年に刊行されたみずからの『回想録』で、そのときの状況をなまなましく再現した*12。

 かれ(幣原首相)は、1月24日の正午、私の事務所を訪れ、私にペニシリンのお礼を述べたが、そのあとでなにか当惑し、躊躇しているらしいのに気づいた。私は、かれに何を悩んでいるのかとたずね、首相として、不満でも提案でも、まったく遠慮しないで率直に語ることができるのだと述べた。かれは、私の軍人としての職業ゆえに語るのを躊躇しているのだと答えた。私は、かれに軍人はときどき描かれているほど鈍感でがんこではなく、軍人の多くは本当はまったく人間的であることを保障した。  そこで首相は、新憲法が最終的に成立する際に、いわゆる非戦条項(no-war clause)を含めることを提案した。首相はまた、憲法を日本にいかなる軍事機構−どんな種類の軍事機構−をも禁じるようなものにしたいと述べた。こうすれば、二つのことが達せられるであろう。すなわち、旧軍部は、いつかまた権力を握ることができることになる手段を剥奪されることになるだろうし、また世界の諸国は日本がふたたび戦争をおこなう意思を決してもたないことを知ることになろう、というものであった。首相は、さらにつけ加えて、日本は貧乏な国であって、実際に軍備に金を注ぎ込むような余裕はないとも述べた。日本国に残されている資源はすべて、経済を活性化させるのに使うべきだ、というのが首相の考えだった。  私は、私の長い年月の経験から、実際にちょっとやそっとで驚いたり、非日常的な興奮に動じることはないと考えていたが、このときは、息も止まるほどであった。これ以上に賛成することのできるものはなかったであろう。長年、私は、戦争は諸国間の紛争を解決する手段として時代遅れであると信じていた。おそらく現存している人間で、私ほど多くの戦争とその破壊を見てきた人間はいないであろう。6つの戦争に実際に参加し、または観察し、20の戦闘の退役軍人であり、また何百という戦場で、世界のあらゆる国の兵士たちとあるときは味方として、あるときは敵として、戦ってきた。そして私の戦争への嫌悪感は、原子爆弾の完成で、最高潮に達していた。  私がこのような気持ちであることを語ると、今度は幣原が驚く番だった。かれの驚きようは大変なもので、私の事務所を出るときには、打ちのめされたようだった。涙がかれの顔を流れ落ち、私の方を振り返り、次のように述べた。「世界は、私たちを非現実的な夢想家として、あざけり笑うでしょうが、いまから100年後には、私たちは、予言者として呼ばれることでしょう。」

 ここに「ペニシリンのお礼」というのは、幣原首相が風邪をひき、高熱でうなされていたとき、当時日本ではなかなか入手できないぺニシリンをマッカーサー元帥から贈られ、そのおかげで熱が下がり全快したので、そのお礼のためにマッカーサーを訪ねたことを指す。幣原は、前年12月25日の夜、いわゆる「天皇の人間宣言」(1946年1月1日)の原稿執筆のため、官邸で根を詰めていたところ、窓のすき間から入ってきた寒風が74歳の老首相の身にこたえたようで、肺炎にかかり、寝込んでしまったのである。  上述のようなマッカーサーのなまなましい描写は、世人をして、9条の発案者は幣原だったのかと思わせるのに十分であった。  また、マッカーサー元帥の信頼が篤かった民政局長のホイットニー准将も、マッカーサーの伝記において、戦争放棄条項は、幣原首相の発案によるものだったと明記している*13。  さらに幣原みずから、その著『外交50年』において、次のように叙述している*14。

 私は図らずも内閣組織を命ぜられ、総理の職に就いたとき、すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景(西注・乗客の一人が政府は国民の知らぬ間に戦争を引き起こし、また降参したのはけしからんと言ったところ、多くの乗客がこれに呼応したこと)であった。これは、何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと、堅く決心したのであった。それで憲法の中に、未来永ごうそのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは、外の人は知らんが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。それは一種の魔力とでもいうか、見えざる力が私の頭を支配したのであった。よくアメリカの人が日本へやって来て、こんどの新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありめせんかと聞かれるのだが、それは私の関する限り、そうじゃない、決して誰からも強いられたんじゃないのである。

 幣原喜重郎(1872−1951年)は、外交官歴が長く、何度も外務大臣を経験し、その外交政策は、「国際協調、恒久平和、共存共栄、対華不可侵等を信条」*15としていた。それゆえ、幣原発案説に信憑性ありと考えられたのであった。

 (2)マッカーサー発案説

こうして、幣原首相発案説が有力になってきたが、同首相が発案したことは、絶対にありえないと主張するのが、当時、近くにいて、首相の言動を知悉している松本烝治、芦田均らである。  松本烝治(1877−1954年)は、幣原内閣のもとで、国務大臣として、憲法問題調査委員会委員長をつとめ、『憲法改正要綱』(いわゆる松本案)をまとめた。この要綱を1946年2月8日、同案を総司令部へ提出したが、峻拒され、逆に同月13日、総司令部案をうけとった当事者である。吉田茂外務大臣とともに、総司令部案のなかに平和主義条項をみた最初の日本人でもある。その後、総司令部案をもとにして、みずから『3月2日案』を作成することになった。  松本は、1954年9月に開かれた自由党憲法調査会において、以下のような証言をした*16。

 向こうのこの間の議会のヒアリング(西注・前述の1951年5月の上院軍事・外交委員会のヒアリングを指す)においては、マッカーサーが、幣原さん自身が軍隊を廃することに大変熱心であつたことを言つたと伝えておりますが、これは非常な間違いだと思います。私の改正案には、もちろん軍というものはあつた。それについて特に説明書を出したのですが、その説明書は幣原さんその他閣僚みんなの御賛成で出したものなのです。少なくともこれを出したときにおいては、陸海軍を廃止するとか何とかいう考えが幣原さんになかつたことは疑いのないところと思つております。(中略)しかるにその幣原さんが、軍の廃止は自分の方の初めからの考えなんだということをマッカーサーに言われたというのですが、幣原さんが後日マッカーサーに会つておられることはあとで申しますが、そのときにでも言われたか、どうもそのときに言われていないように思うのです。言われたとすれば、そのときにそうきまつた以上は、自分は最初から考えておつたというようなことは言われたかもしれません。軍の廃止は最初向こうからこしらえて押しつけてきたので、それに対してこちらは相当反抗したのでありますが、それをこちらの意思で何か軍の廃止をしたいからと言つたからマッカーサーがそういうことを書いたのだと言われるのは、前後まつたく転倒している。はなはだしい間違いだと思います。

 ここに『説明書』とは、『憲法改正要綱』とともに、2月8日に総司令部へ提出されたものである。『憲法改正要綱』には、軍の規定があり、松本は、要綱全体に関する説明書とは別に、『憲法中陸海軍ニ関スル規定ノ変更ニ付テ』を提出した。同文書において、帝国憲法には軍の統帥権の独立が定められ、軍の編制および常備兵額を天皇の大権事項としていたが、新しい憲法では統帥権の独立を廃止し、軍に関する議会の統制を強化することが縷々説明されている*17。  また芦田均(1887−1959年)は、幣原内閣の厚生大臣として、閣議に列席し、2月22日に幣原首相が前日マッカーサーに会ったときの報告を閣議でおこなった様子をメモにとっていた。1986年、娘婿の下河辺元春と筑波大学教授の進藤榮一の手により、『芦田日記』として世に出された。  それによると、マッカーサー元帥は、総司令部案のうち、基本条項(ベーシック・フォームズ)は天皇と戦争放棄の条項にあり、とくに後者に関し、日本が国策遂行のためにするような戦争を放棄すると声明し、世界の平和実現に向けて日本はモラル・リーダーシップを握るべきであると語ったので、幣原首相は、リーダーシップというが、おそらくだれも追随者(フォロアーズ)とはならないだろうと語をさしはさんだ、というのである*18。  このように、幣原が「日本がモラル・リーダーシップをとっても、だれも追随者とならないだろう」と述べた点は、同首相は戦争放棄条項にすこぶる懐疑的であったからこそ発せられた言葉であって、もし自身が最初に言いだしていたら、閣議でこのような発言がなされるはずがない、というのが芦田の見方である。

 (3)幣原・マッカーサー意気投合説

 この説は、幣原首相発案説には否定的であるが、同首相の年来の非戦思想がマッカーサー元帥の賛同を生みだし、意気投合して戦争放棄条項に昇華したのだという。  当時、幣原首相の秘書官だった岸倉松は、次のような証言を残している*19。

 幣原首相は第9条の条項にはなんら関係していなかつたのであり、同条項を憲法の草案にそう入するということは幣原首相の関知せざるところであつたことは明瞭である。しかし、幣原首相の戦争放棄の悲願はマッカーサー元帥を深く感動させ、それが契機となつて第9条が総司令部案に規定されることとなつたと確信する。・・・要するに幣原首相とマッカーサー元帥の気合いがみごとに一致して戦争放棄の条項が生み出されたのである。

 これと同趣旨の発言が、幣原内閣の外務大臣だった吉田茂、および法制局次長として政府案作成に多大の貢献をした佐藤達夫らにもみられる*20。

 (4)ケーディス・ ホイットニー共同提案説

このケーディス・ ホイットニー共同提案説を唱えるのは、アメリカにおける日本国憲法成立史研究の第一人者、セオドア・マクネリー教授である。教授は、1946年1月半ば、民政局長のコートニ・ ホイットニー准将と同次長のチャールズ・ケーディス大佐が幣原首相に、総司令部が出した公職追放令の説明をしに行く車中、ケーディスが ホイットニーに次のようにたずねたとことを重くみる*21。    天皇が戦争放棄の詔勅を発するということは可能でしょうか。それができれば、日本の国際的イメージを変え、ポツダム宣言の履行にも役立つかもしれないと思うのですが。

 このケーディスの提案を受けて、 ホイットニーが幣原首相に詔勅という方法で戦争放棄を考えてみたらどうかと伝えたという事実がある。そこでマクネリー教授は、ケーディスの考えが ホイットニーを通じて、幣原首相に伝えられ、それが1月24日の会談で実現した。つまり、マクネリー教授は、ケーディス→ ホイットニー→幣原→マッカーサーという経路になるのではないかと推測する。  しかし、この ホイットニーの提案に対して幣原首相はなんらの反応も示さなかったそうであるし、実は私(西)がこの点について、ケーディスにマクネリー教授の上記の仮説が正しいかどうかをたずねたとき、ケーディスは肯定的な返答をしなかった*22。  なお、 ホイットニー(Courtney Whitney,1899−1969年)は、ジョージ・ワシントン大学ロースクールを卒業し、フィリピン時代からマッカーサー元帥の右腕として活躍、マッカーサーのもっとも信頼の篤いスタッフの一人であった。またケーディス(Charles Louis Kades,1906−1996年)は、コーネル大学卒業後、ハーバード大学のロースクールで学び、弁護士として活躍していた。両人は、民政局の局長と次長として、日本国憲法草案作成の中心的人物であった*23。

 (5)天皇発案説  

最後に、天皇発案説は、元毎日新聞の大森実記者が唱えたものである。大森は、ケーディスとの会見をもとにして、次のように断じた*24。

 「第9条、戦争放棄条章の真の発案者は天皇であった」というケーディスの論理には、この証言者が起草者自身であるだけに、弁証法的な説得力があると思われるのである。少なくとも筆者(大森実氏)は、ケーディス新証言がもつ弁証法的論理展開によって、『第9条の発想者が天皇だった』に帰納されることを認めねばならぬと思うのだ。

 ここでケーディスが大森に語ったことは、 ホイットニーから手渡された黄色い紙(マッカーサー・ノート)を基礎にして、自分が戦争放棄条項を書き改めたが、その際、このような思想の淵源は、46年1月1日の天皇の「人間宣言」にあると思ったという点である。大森がこのケーディスの感想をもとにして、天皇発案説を大胆に打ち出したわけであるが、天皇自身は憲法作成に関与しておらず、ただ「人間宣言」のなかにみられる“神格否定”、“平和主義思想”のみを根拠に、このような説を打ち出すのは、安易にすぎるように思われる。  実は、私も、この点についてもケーディスにたずねてみたが、その返答は次のようであった*25。 

 天皇は1946年1月1日、いわゆる人間宣言を発しましたが、その詔勅のなかに、日本は平和主義に徹し、平和主義にもとづいて世界でその地位回復に努めなければならない旨、述べられています。私は、これはおそらく、政策の手段としての戦争放棄を述べたものではないかと思ったのです。そこで私は、戦争法規条項は天皇のアイデアだったのではないかと思ってもみたのです。しかし、このような詔勅の作成に当たっては、当然、幣原男爵がお手伝いしたわけで、そうすれば幣原男爵のアイデアだったという見方も成り立つわけです。私自身、当初、マッカーサー元帥のアイデアだとばかり思っていたのです。結論的にいえば、発案者はだれだったのか、ミステリーといわざるを得ません。

 のちに詳述するように、戦争放棄条項の具体化に深く関与したケーディスでさえ、「ミステリー」というくらいであるから、確たる資料が残されていない現状から、その発案者を特定することは至難のわざであるといわなければならない。

 (6)幣原発案説の否定  

多くの証言から、幣原発案説を積極的に支持するのは、難しいように思われる。その理由は、以下のごとくである。  まず第一に、マッカーサーが根拠としている1月24日の時点で、幣原・マッカーサー両者の間でそれほど深く憲法条項にまで立ち入った話し合いがおこなわれたとは考えられないということである。この時期は、いまだ憲法問題調査委員会の案が最終的にできあがっていなかったし、総司令部側も、日本案の仕上がりを待っていた。それゆえ、両者間で平和主義についての議論がなされたとしても、憲法条項の具体的な中身にまで話がおよんだとは考えにくい。  第二に、その後の憲法草案の進行状況と幣原首相の態度との関連で、同首相が戦争放棄条項をみずから推進したと思われる言動がみられないということである。閣議において、幣原首相は、松本案のうち、軍備に関する条項をもうけることに消極的な発言をしているが(1月30日の閣議)*26、最終的に『憲法改正要綱』ができあがり、2月8日に軍の規定をおいたことについての説明書を総司令部に提出したとき、幣原首相は同意を与えている。また2月18日に松本大臣が再説明書を提出した際にも、同首相は特別の行動をとっていない。さらに、前述したように、2月22日の閣議で、マッカーサーの述言に対して、「追随者(フォロアーズ)はいないだろう」と発言している。  このような幣原首相の一連の行動をみると、もし本当に同首相が戦争放棄条項の発案者ならば、もっと違った行動がとられたのではなかろうか。ここにおいて、それでは幣原首相が自著『外交50年』でなぜ自分が発案したように書いたのかという疑問が残る。  この疑問に対して、実は同書が本心から書かれたものではなかったという証言がいくつかある。幣原首相と親交のあった紫垣隆は、『大凡』という雑誌に、首相と会ったときの様子を再現している*27。

 (幣原首相は)「今度の憲法改正も、陛下の詔勅にある如く、耐え難きを耐え、忍ぶべからざるを忍び、他日の再起を期して屈辱に甘んずるわけだ。これこそ敗者の悲しみというものだ」としみじみ語り、そして傍らにあった何か執筆中の原稿(西注・『外交50年』を指していることはほぼ間違いない)を指して、『この原稿も、僕の本心で書いているのでなく韓信が股をくぐる思いで書いているものだ。何れ出版予定のものだが、お手許にも送るつもりだから、読んでくだされば解る。これは勝者の根深い猜疑と弾圧を和らげる悲しき手段の一つなのだ』と懇々と説得され、(後略)。

 ここで、もし幣原首相が紫垣に語ったように、『外交50年』が首相自身の本心からではなく、「勝者の根深い猜疑と弾圧を和らげる悲しき手段の一つ」として執筆されたものであるとすれば、同書の内容を大いに疑わなければならなくなる。しかし、いやしくも内閣総理大臣や外務大臣という国家の最高のポストにあったものが本を著すということは、後世に歴史を語ることになることを幣原首相自身が知らぬはずはなかろう。それを承知で、あえて本心でないことを書かなければならないほど、背後に何か大きな圧力なり事象があったのだろうか。謎は深まるばかりである。  謎といえば、総司令部が9条の発案者を操作した疑いがもたれた事案がある。外務省がはじめて戦後の外交文書を公開したのは、1976年5月のことである。このなかにひとつの奇怪な文書が紛れこんでいたのである。それは、前述の戦争放棄を明記したマッカーサー・ノート第2原則のすぐあとに、かっこ書きで英文により、次のように記述されていた。

 (この考えは、最初に当時の幣原首相から最高司令官に表明され、司令官はただちにそれにつき心からの支持を与えた。)

 もしこのかっこ書きの部分が最初から入っていたものであるとすれば、まさに幣原首相の考えが最初に表明され、それにもとづいてマッカーサー元帥が憲法条項として、憲法草案に書きこんだことになる。ところが、総司令部からの最初の公式文書には、どこを探してもかっこ書きに相当する部分は存在しない。とすれば、だれかがあとでマッカーサー・ノートに手を入れ、それが残っていたことになる。いったいだれが、いつ、何のために書き加えたのか。  この謎を解き明かしたのが、元ジャパン・タイムズ社の記者村田聖明氏である*28。村田記者は、1950年に英語で書かれた『日本の政治的再編成』を読み、ぜひそのなかの日本国憲法成立過程の部分を記事にしたいと思った。この書はすでに公開されていたので、とくに問題はないと思ったが、何分にも占領期間中のこと、総司令部から許可をもらっておくことが必要であると考えた。そこで総司令部に出向き、ネイピア少佐に許可を求めたところ、2、3日後に返事があった。それによれば、同書は公開文書なので転載することには問題ないが、ただ一つだけ条件があるという。その条件というのは、マッカーサー・ノート第二原則のあとに、前述のかっこ書きの文章を加えるということだった。こうして、この文書がなにかの拍子に外務省公開文書のなかに紛れこんでいたのである。  ところで、なぜこのような文言を書き加えることを総司令部が村田記者に要求したのだろうか。村田記者が『ジャパン・タイムズ』に記事を書いたのは、1950(昭和25)年11月11日のことである。1950年11月といえば、朝鮮戦争の勃発(同年6月25日)、警察予備隊の創設(同年8月10日)、仁川上陸作戦の敢行(同年9月15日)、トルーマン=マッカーサー会談(同年10月15日)と朝鮮半島を舞台に、国際情勢がきわめて激しく揺れ動いていた時期である。ことに日本における最大の問題点は、警察予備隊の創設であった。  マッカーサーは、1950年7月8日、警察予備隊の創設を「許可する」(authorize)との「警察予備隊創設に関する指令書簡」を発したが、この警察予備隊の創設は、日本側から許可を求めたわけではなく、マッカーサー主導によるものであることは、だれの目にも明らかであった*29。警察予備隊は平和主義憲法に反するのではないか、平和主義憲法を制定させたマッカーサーが軍隊の創設を唱道するとはどんな了見なのか、こんな批判が公然と起こってきた。  マッカーサー自身は、この年の1月1日、年頭の辞で「日本国民諸君」と語りかけ、「現在一部の皮肉屋たちは日本が憲法によつて戦争と武力による安全保障の考え方を放棄したことを単なる夢想にすぎないとあざけつているが、諸君はこうした連中の言葉をあまり気にしてはいけない、この憲法の規定は日本人みずから考え出したものであり、最も高い道義的理想にもとづいているばかりでなく、これほど根本的に健全で実行可能な憲法の規定はいまだかつてどこの国にもなかつたものである、この憲法の規定はたといどのような理屈をならべようとも、対手側から仕掛けてきた攻撃に対する自己防衛の冒しがたい権利を全然否定したものとは絶対に解釈できない、それはまさに、銃剣のために身をほろぼした国民が、銃剣によらぬ国際道義と国際正義の終局の勝利を固く信じていることを力強く示したものにほかならない」と述べている*30  ここにおいて、9条が「日本人みずから考え出したもの」であり、「対手側から仕掛けてきた攻撃に対する自己防衛の冒しがたい権利を全然否定したものとは絶対に解釈できない」と明確に論ずることにより、みずからに向けられ批判をかわそうと考えたとみられないでもない。かくして、マッカーサー・ノートが日本の英字新聞で公表されるにあたり、幣原首相の発案であることを明記させようとしたと思われるのである。事実、村田記者が記事の原稿を総司令部へ持参してから、条件つきの許可が出るまでに2、3日かかっており、その間に上層部で相談した節が十分にうかがわれた、と同記者は語っている。  これに関連し、総司令部の憲法案作成に携わり、 ホイットニーのあとに民政局長に就任したフランク・リゾーは、私(西)に興味ある内輪話を披露してくれた。それは、 ホイットニーが憲法9条の発案者に関連して、当初、「アウワ・オールドマン」(マッカーサーを指す)といっていたが、朝鮮戦争勃発後には「ユア・オールドマン」(幣原首相を指す)と言い出したというのである*31。  こうしてみると、朝鮮戦争勃発の時点あたりから、幣原発案説が総司令部内で意識的に作り上げられたという見方も成り立とう。

ところで、マッカーサー元帥の発案であるとすれば、その源はどこに発するのかという疑問が生ずる。この疑問に対して、広島大学の中川剛教授は、1928年の不戦条約(国際紛争を解決する手段としての戦争の否定と国家政策を遂行する手段としての戦争放棄を規定)に端を発し、1935年のフィリピン憲法(国家政策の手段としての戦争放棄を規定)が影響したのではないかとみる。同教授は、次のように推断する。「フィリピン憲法制定時にフィリピン政府最高軍事顧問であり、太平洋戦争時にはフィリピンの最高司令官であったマッカーサーが、戦争放棄条項を憲法に書き入れることに躊躇しなかったのは、この35年憲法が先例として頭のなかにあったからであろうと考えられる。それ以外の可能性はほとんどない。」と*32。  また、奇しくも海を隔て、アメリカの日本国憲法成立過程の研究者、ヘレガースも、フィリピン憲法の影響をあげる。ヘレガースは、マッカーサーが戦争放棄条項の導入を考えたのには、同条項により、勝利者の血の騒ぎが鎮まるであろうこと、天皇存置の代償になるかもしれないこと、軍事施設を支援すれば、経済復興が困難になること、そしてフィリピン憲法をよく知っていたことに帰因するのではないかと推測している*33。  幣原発案説を否定する最後の理由として、検閲問題があげられる。このことを強調して、幣原発案説を否定するのは、文芸評論家で、検閲の実態を詳細に追及した江藤淳である。当時、日本で公刊されるすべての刊行物は、総司令部によって厳しく検閲されていた。この検閲は、著者の立場とは関係なく、総司令部が設定した基準に従って粛々と実施された*34。総司令部によれば、日本国憲法は、日本人の頭で考え出され、日本人の手で作成されたものでなければならなかった。江藤は、幣原首相もこの神話に従わざるをえず、前述の幣原の公式発言および『外交50年』も、その一環のなかで検討されなければならないと主張している*35。

3.条項の成立にいたる経緯

第1段階 マッカーサー・ノート

 憲法9条のそもそもの淵源をどこに求めるかは、やや議論のあるところであろう。一つに、1945年7月26日に発表された『ポツダム宣言 日本国ノ降伏条件ヲ定メタル宣言』に求める見方がある。しかし、同宣言は、わが国の降伏条件を定めたもので、憲法の中身まで予定したものとはいえない。それゆえ、「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ」(同宣言9項)、「吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ……」(同13項)というような文言*36は、将来のわが国憲法の平和主義条項と直結するものと考えることはできない。  二つに、SWNCC(国務・陸軍・海軍三省調整委員会)−228文書『日本の統治制度の改革』(Reform of the Japanese Governmental System)に起源を求める見方も、可能ではある。このSWNCC−228文書は、1946年1月7日、アメリカ合衆国国務.・陸軍・海軍三省調整委員会(The State・War・Navy Coordinating Committee 略称SWNCC)が採択し、同月11日に連合国最高司令官マッカーサー元帥に対して送付されたもので、日本国憲法の原案たる総司令部案の作成にあたり、もっとも重要な参考資料とされたものである。民政局次長で、運営委員長として総司令部案作成の中心人物、ケーディスは、各委員会の主査に対して、SWNCC−228文書に矛盾しないように指示したという*37。事実、民政局における状況を克明にメモしていたエラマン・メモ*38によれば、運営委員の一人であったラウエルは、行政権の章を担当していたエスマンに対してSWNCC−228の要件に満たさないとの注意をほどこしている*39。また当時、民政局にいて、みずからは草案を起草しなかったが、同僚たちの動きをつぶさに見ていたジャスティン・ウイリアムズは、同文書をポツダム宣言とともに座右においていたからこそ、マッカーサーは自信をもって日本国の憲法草案をの作成に乗り出すことができたのであると私に語った*40。同文書には、一方でかつてわが国において、統帥権の独立、現役武官大臣制が軍国主義化の方向へ導いていったことを指摘し、他方で「国務大臣または内閣閣員は、すべての場合にシビリアンでなければならない」旨の憲法規定をもうけるように最高司令官は、日本国政府に注意を喚起することが記述されている。このような憲法規定は、シビリアンでない人間(つまり軍人)の存在を前提としており、したがってSWNCC一228文書は、わが国憲法に軍備条項の撤廃を求めていたとはいえない。  もちろん、ポツダム宣言にしても、SWNCC−228文書にしても、憲法9条の淵源の一つになっているとはいい得ようが、マッカーサー・ノートをもってその直接の淵源とすべきであろう。  マッカーサー・ノートは、1946年2月1日、いわゆる松本委員会案が毎日新聞にスクープされ、同案の内容が大日本帝国憲法の焼き直しにすぎないと判断したマッカーサーによって、翌々日の2月3日、民政局長のホィットニ−准将に提示されたものである。このノートが黄色い紙に書かれていたことは事実のようであるが、実際に何項目記されていたか、確たる証拠はない。のちに復元されたノ−トには、4項目にわたり記述されている。しかし、当時の民政局員オズボン・ハウゲによれば、 ホイットニーによって読み上げられたノートには、天皇制の存続、戦争の放棄、封建制の廃止、1院制など6点か8点あったと記憶すると私に語っている*41。黄色い紙そのものが現存すれば、一目瞭然であるが、この紙はしばらくケーディスの手許におかれていたものの、ケーディスが ホイットニーの子息に渡したところ、そのうち消失しまったとのことである*42。  さて、復元されたマッカーサー・ノート*43の第2原則には、次のように記されている。

 “War as a sovereign ritght of the nation is abolished.Japan renounces it as an instrumentality for settliing its disputes and even for preserving its own security.It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection.

No Japanese Army,Navy or Air Forces will ever be authorized upon any Japanese forces.”


「国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決の手段としての戦争および自己の安全を保持するための手段としてさえも、戦争を放棄する。日本は、その防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。  いかなる日本の陸、海、空軍も決して認められず、いかなる交戦者の権利も、日本軍隊に決して与えられない。」

 上述の文書のうち、とくに注目されるのは、マッカーサーが放棄すべき戦争として、「紛争解決の手段としての戦争」のみならず、「自己の安全を保持するための手段としてさえもの戦争」をあげていることである。前者は、1928年の不戦条約を受けたものであることは明らかである。前述したごとく、同条約1条には、締約国は、「国際紛争を解決するための戦争を非とし」、同時に「国家政策の手段としての戦争を放棄すること」が規定されていた。この不戦条約を共同に提案したアメリカの国務長官・ケロッグおよびフランスの外務大臣・ブリアン(それゆえ同条約は、しばしばケロッグ・ブリアン条約と呼ばれる)によれば、「紛争解決の手段としての戦争」を「自衛戦争および制裁戦争を除いた不法な戦争、すなわち侵略戦争」を意味するものであると説明したという。*44  マッカーサーは、当然にこのことを知っていた。そのうえで、さらに「自己の安全を保持するための手段としてさえもの戦争」をもノートにあえて書きこんだのであった。このことは、マッカーサーが侵略戦争だけでなく、自衛戦争をも禁じることを日本国憲法に求めていたということである。この点は非常に重要であり、とくに銘記しておく必要がある。

第2段階 ケーディス運営委員長の修正(総司令部案の作成)

 マッカーサー・ノート第2原則は、総司令部のなかで、二度にわたり、修正された。一度目は、1条におかれるように指示されていた。ハッシー文書がその事実を明白に残している。資料3がそれであるが、ここに現行の9条に相当する部分の前にarticle 1 と手書きで書き添えられている。また、そのあとの文章をくくり、矢印で1条の前、すなわち前文に移動させるように指示されている。これは、何を意味するか。この謎解きをするには、資料1と資料2とを合わせてみなければならない。

資料1


資料2


資料3


 まず、資料1にクリップでとめられている手書きの英文を判読すると、以下のようになる。

 The top sheet's the original draft of the Preamble,written by me with changes of General


MacArthur RH

(上の紙は前文の原案で、私が書き、マッカーサー元帥の修正を経た。RH)

 ここにRHとは、ロドマン・ハッシーのイニシャルなので、ハッシーが書いたメモであることは、まちがいない(ハッシーが遺している他の文書からみても、かれの筆跡と断定できる)。  つぎに、上の紙には、「われら日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し・・・」から、「われらは、これに反する一切の憲法、命令、法律及び詔勅を排除する。」までが記述されている。(資料2)  そして2枚目(資料3)に、現行の9条を含む文章が列記されている。全体を訳すると次のようになる。    国権の発動たる戦争は、廃止する。武力による威嚇または武力の行使は、他国間との紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。陸軍、海軍、空軍その他の戦力は、決して認められることはなく、また交戦権も、国家に対して決して与えられることはない。  日本国民は、恒久の平和を念願し、いまや人類を動かしつつある人間相互の関係を支配する崇高な理想を十分に自覚するのであって、その安全と生存とを、平和を愛する世界の諸国民の公正と信義に委ねようと決意した。日本国は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと企図し、かつそれに献身している国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。  日本国は、国家の名誉にかけ、確固たる意思のもと全力をあげて、これらの崇高な原理(と目的)を達成することを誓う。

 この3枚の紙は、ミシガン大学アジア図書館に所蔵されている。総司令部民政局で日本国憲法草案(総司令部案)作成にたずさわったアルフレッド・ロドマン・ハッシー海軍中佐(当時)が整理していたものを、没後、未亡人によって同大学に寄贈された。犬丸秀雄防衛大学校名誉教授が1974年秋に同大学の図書館を訪れ*45、翌年10月に学会誌に発表した。*46また、サンケイ新聞では独自にハッシー文書を報道した。*47  この3枚がハッシーによってクリップでとめられていたことから、実は前文が2枚に書かれてあり、そのなかの1枚にマッカーサー・ノート第2原則が入れられていたのではないかという見方がある。民政局における日本国憲法案作成のメンバー表では、前文はハッシーが担当することになっていた。そこで、この見方によれば、ハッシーがマッカーサー・ノートを手直ししたことになる。前述したサンケイ新聞、犬丸教授の初期みら論稿、および田中英夫教授の著書*48がこの立場に立っている。  ところが、犬丸教授は、ケーディスや日本国憲法成立史の研究家ヘレガースとの書簡の往復などから、説を改め、前文におかれたことはなく、最初から1条におかれたのではないかとの見解を発表した*49。同教授は、ハッシーのメモ用紙にsheetと単数になっていて、複数ではないこと、それぞれの紙のタイプの字体が違ったものになっていること、ケーディスはマッカーサー・ノート第二原則を書き改めたのは自分であると語っていること、そしてこの記憶に損頼性があることなどの理由をあげ、ケーディスの書いた文書が何かのはずみでハッシーの書いた文書と一緒にされ、二枚つづりで保管されたものであろうと推測する。  この点について、私もケーディスとヘレガースにたずねてみた。両者からの返答は以下のようである。   ケーディスからの書簡*50

 私は、ハッシー中佐が戦争放棄条項を前文に入れたことを思い出せません。のみならずかれがそうしたとはとても考えられません。というのは、かれも運営委員会の委員であり、私たちはすべて当該条文を本文におくべきであり、しかもそれはたんに願望的ではなく、強行規定にしなければならないことに同意していたからです。松本蒸治氏が後日、ホイットニー将軍および運営委員会委員と同将軍のオフィスで会って当該条項を前文に移したいと申し出たとき、私たちはかれに、当該条項は原理の宣言ないし勧告以上のものであり、拘束力をもつ、基本法の不可分の一部であるべきだと述べたはずです。ハッシー中佐が紙を綴じたときにおそらく書いたであろう手書きのメモは、あなたが送付してきた紙(注・西が送ったハッシー文書)の最後の2パラグラフについてのみ言及しているものと私は思います。というのは、矢印と“第1条”という手書きのものは、すでに紙に書きこまれているからです。.ただし、このことについては、私は確信がもてません。  第1条への矢印を引いたのは、私だと思います。icleの手書きは私のものです。そして私はこのことをとても鮮明に覚えています。その理由は、ホイットニー将軍が当該条項を非常に重要と考え、第1条にすべきだと考えていたという印象を私がもっていたからです。もっとも、私は、第1条は天皇の条項にすべきだと思っていました。  天皇に関する条項が第1条にもってこられ、そのあと7か条か8か条を続けるという決定が最終的になされたとき、戦争放棄条項は天皇の次の章におかれることになりました。運営委員会は天皇に関する条項を最初にもってきたいと考え、ホイットニー将軍も天皇の条項を重んずることに同意しましたが、同将軍は最初、明治憲法の形式をそれほど重視する必要がないと考えていました。私はいまでも同将軍の考え方は正しかったと思っています。エラマン嬢の覚え書きは、ホイッートニー将軍の仮の決定を収録しています。  私は、 ホイットニー将軍からもらった草案(注・マッカーサー・ノート第2原則を指す)を書き直すのに誰の手も借りることなく、自分一人でその仕事を引き受けました。なぜなら、修正は最少限のものにすべきであると考え、また削除しなければならないと信じた部分(どの部分であるかは後述)について他の将校と討論したくないと思ったからです。

 このケーディスの筆者宛ての書簡は、別掲ハッシー支書(資料1−3)を参照すれば理解できると思われるが、若干補足しておきたい点がある。  ひとつは、松本大臣とホイッーニ一局長らとの会見である。それは、2月22日のことである。日本国政府は、2月13日、総司令部案を受けとったのち、同月21日に幣原首相がマッカーサー元帥を訪問し、その真意をたずねた。ついでその翌日、松本国務大臣が吉田外務大臣とともにホイットニー民政局長らを訪れ、詳細について質問した。このときのポイントを.『松本手記』*51から引用すれば、次のようである。

 「第二章戦争廃棄ノ規定ハ一個ノ宣言タルニ止マリ寧ロ前文中ニ置クヲ相当トスルカ如ク思ハルルカ如何」  「此ノ規定ハ最モ顕著二世界ノ耳目ヲ聳動スルヲ要スルモノナレハ断シテ条文中二置クヘク余(ホイットニー)ハ之ヲ第一条二置キタシト考ヘタル程ノ規定ナリ」

 こうして、松本国務大臣の戦争放棄条項を前文にもっていこうとする松本らの企図は、ホイットニー局長によって拒否されたのである。  なお上記のなかで、ホイットニー局長が戦争放棄条項を第1条におきたいと考えているほどであると記されている点は、ケーディスの記憶と一致するところである。  ふたつは、エラマンの覚え書についてである。そこには以下のように記されている。(資料4)*52  「日本国憲法」の「最終」(Final)として、「前文」に続いて、第1章のタイトルを「戦争放棄」とし、第1条に一般的な戦争放棄を、そして第2条に交戦権の規定を予定していたことが明確に記述されている。.以下、第2章を「天皇」、第3章を「国会」(当初、「人権」を予定していたようであるが消されている)、第4章を「行政府」とすることもメモされている。なお同メモには、「前文」の記述について何人かが発言しているが、戦争放棄条項についての発言がみられない。このことからも、「前文」には、戦争放棄条項が入れられていなかったといえる。

資料4


 つぎにヘレガースからの書簡*53は、ハッシーの文体はケーディスのそれよりも美文調であり、前文にもそれが表れていること、もしハッシーが前文に加えて、1条も書いたとすれば、新しい将来の出発点とするよりもむしろ、日本国民を懲罰するような煽動的な文体にしていたであろうこと、またそれほど直線的な文体を用いていなかったであろうこと、そして文体の面から分析して、2枚の紙が明らかに別人によって(すなわち、1枚はハッシーによって、他はケーティスによって)書かれたものであると結論づけている。  以上のことを総合して考えてみると、@ケーディス自身、戦争放棄条項の再起草を自分一人で担当し、しかも前文に入れるものとして書いた記憶がまったくないと語っていること、A民政局次長でかつ総司令部案の起草委員長の地位にあった大佐のケーディスが執筆しているのを知っていながら、中佐で運営委員の一人であるハッシーがケーディスを差しおいて、前文に戦争放棄条項を書きこむとは常識的に考えられないこと、Bその他前述した犬丸教授およびヘレガース書簡の指摘などから、前文に入れられていたというよりも、最初第1条におかれ、運営委員会内部の討議により、最終的に「天皇」の章の次、すなわち第2章「戦争放棄」の第8条に設定されたとみるのが妥当のような感じがする。  このように、資料3がハッシーによって書かれたのか、ケーディスによって書かれたかの議論とは別に、同ペーパーのうち、第1段落、すなわち“War as a sovereign ritght of the nation is abolished.”から、“no rights of belligerncy will never be conferred upon the state. ”までをケーディスが書き、第2段落と第3段落はハッシーによって書かれたのだと唱える説もある。ヘレガースによる説である。彼女によれば、第1条は両者の合作であって、第1条におかれた戦争放棄条項のうち、第1段落のケーディスの文案だけでは不十分と考えたハッシーがより凝った文体(flamboyant style)で二つのパラグラフをつけ加えたというのである*54。  また、ホイットニー民政局長こそが資料3の起草者であるとする佐々木高雄教授の説がある。同教授は、 ホイットニーがマッカーサー・ノートにあった「自衛戦争の抛棄」を削除することに対してはケーディスに同意したものの、全面的には納得せず、みずから補充しなければならいと考えたのではないかと推定する*55。  ところで、ケーディスは、マッカーサー・ノートをどのように再起草したのであろうか。その英文は、前掲(資料3)のごとくであるが、民政局で検討された結果、最終的には、総司令部案として、第2章の第8条におかれた。この案が2月13日に日本国側に示されたのである。

Chapter

U Renunciation of War  

Article [ War as a sovereign right of the nation is abolished.The threat or

use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any

other nation. No army,navy,air force,or other war potential will ever be authorized and no rights of

belligerency will ever be conferred upon the State.


資料3と比較すれば、総司令部案ではarmy、,navy、air forceが小文字になっていること、逆にStateが大文字になっていること、全体が1項目にまとめられたいたのに、1項と2項とに分けられたことくらいで、基本的には変わっていない(それゆえ、邦訳は前記のままとする)。  しかしながら、マッカーサー・ノートとの違いは、大きい。以下の点に相違がみられる。  (1)マッカーサー・ノートにあった「自己の安全を保持するための手段としてさも」 (even for preserving its own security)の文言が完全に削除されている。  (2)マッカーサー・ノートの「日本は、その防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる」の一節が若干修正されて第2節におかれ、のちほど前文に入れるよう指示されている。これは、この1節が本文としては適当でなく、理想をかかげる前文に挿入する方が理にかなうと考えられたためであろう。  (3)総司令部案では、「武力による威嚇または武力の行使は、他国との紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。」という辞句が追加された。なお、細かい点であるが、マッカーサー・ノートでは、「戦争解決の手段としての戦争放棄」中、「手段」に instrumentalityが用いられてあったのを、meansに替え、かつ、他国家間(any other nation)の文字を追加している。



(4)2項において、マッカーサー・ノートでは「日本の陸海空軍」とあったのが、総司令部案では「日本の」(Japanese)が削られ、また同ノートには、交戦権が「日本軍隊」(any Japanese force)に認められないとされていたけれども、総司令部案にあっては、交戦権が「国」(the State)に与えられないとされた。さらに総司令部案では、「陸海空軍」のみならず、「その他の戦力」(other war potential)も、決して許諾されないものとされた。  いったい、このような変化は、なにを意味するのだろうか。以下、再起草者たるケーティスとのインタビューおよびその後の書簡を通じ、明らかになった点を記すこととする。

 問い(西)「あなたは、マッカーサー・ノートの全面的戦争放棄を、部分的戦争放棄に変更なさったそうですが、事実でしょうか。」  答え(ケーディス)「その通りです。私は例の黄色い紙(注・マッカーサー.ノートを指す)に書かれていた『自己の安全を保持するための手段としてさえも(even for preserving its own securiy)』という文言を削除しました。そしてその代りに、『戦争』のみならず、『武力の行使または武力による威嚇』をも放棄するよう加えました。なぜならば、『自己の安全を保持するための手段としての戦争』の放棄まで憲法に規定すれば、日本は攻撃されてもみずからを守ることができないことになり、このようなことは現実的ではないと思えたからです。私は、どの国家にも、自己保存(self-preservation)の権利があると思っていました。日本は、他国の軍隊に上陸された場合、みずからを防衛することは当然できるはずです。ただ座して待ったり、侵略者に我が物顔でのし歩かせる必要はないわけでしょう。」  問い「当時、あなたは9条について、ケロッグ・ブリアン条約を思い浮べられた.そうですが、この条約は、侵略戦争は明確に否定しているけれども、自衛戦争は否定していませんね。」  答え「はい。その条約が1928年に署名されたとき、私は深い印象を受けました。そのとき私はロー・スクールに在籍していましたが、『これで平和の時代がやって来る』と思ったものです(笑)。マッカーサー・ノートには、『いかなる日本の陸、海、空軍も決して認められない』と書かれていましたが、私はそれに『その他の戦力』という字句をつけ加えたのです。ですから、それはケロッグ.ブリアン条約より進んだものになりました。」  問い「少し細かい質問になりますが、あなたは、『戦争』のみならず、『武力による威嚇または武力の行使」も放棄するよう明記されました。それはどうしてですか。」  答え「たしかケロッグ・ブリアン条約か国連憲章にそのような表現があったと思いますが。ただ当時それをみることができず、いまも持ち合わせていませんので、確認したわけではありません。」  問い「紛争に『他国間との紛争』という言葉を追加されたのは、ただ紛争だけでは国内紛争もあるので、国際紛争という意味をはっきりさせるためと推察しますが、いかがでしょうか。」  答え「あなたの推察の通りです。」  問い「あなたは、『その他の戦力』を加えましたが、どんな意味をもたせようとなさったのですか。」  .答え「私は、『その他の戦力』を、政府の造兵廠あるいは他国に対し戦争を遂行するときに使用され得る軍需工場のための施設という意味で加えたのです。ところが、金森氏は『戦争において用いられる人的、物的力のすべて及びそのような目的達成のための同様の行為』と解し、『“竹やり”が“その他の戦力”の一部になるかどうかの問題は、文明化の程度によって決定されなければならない』と述べ、次のように結論づけました。『戦争は、その他の戦力なくしては遂行され得ないから、2項の実際上の効果は、防衛戦争さえ行ない得ないものである』と。」  問い「『日本」という文字を削ったり、『手段』に相当する語を替えたりしていらっしゃいますね。」  答え「『日本』という文字を削除したのは、日本の憲法にわざわざ『日本』という言葉を加えるのが余計のことと思ったからです。また『手段』に相当する語句をinstrumentalityからmeansに替えたのは、instrumentalityがなんとなく“仲介”というような響きを私に与え、精確さを欠くように思えたからです。」  問い「国の交戦権(the right of belligerency)をどのように理解されましたか。」  答え「正直に言って、私には解りませんでした。ですから、もし芦田氏がその文言の修正や削除を提示したら、応じていたことでしょう。」  問い「9条を再起草されたあなたの意図は解りましたが、日本国政府はそのように解釈をしていませんでしたね。」  答え「そうですね。ただ政府の9条解釈も少し揺れがあったように思います。たとえば金森大臣は、先述したように、実際問題として自衛戦争さえ禁じていると答弁している一方で、枢密院では、国際平和維持のためには軍備を保持することは認められると答えていますね。当時の政府および国会議員の9条に対する認識は、私たち原案起草者よりも、はるかに重要なものと捉え、またそのように解釈しなければならないと考えていたようです。」

 以上が、マッカーサー・ノートの再起草者たるケーディスの意図であり、解釈である。 われわれが9条を解釈するにあたり、このケーディスの見解を重視する必要があろう。そしてこのケーディスの解釈と今日における学界の多数説とは、かなりかけ離れていることを認識しておく必要がある。  その最大の懸隔は、ケーディスが「非現実的」であるからと考え、「自己の安全を保持するためにさえも」という部分を削除したにもかかわらず、学界の多数説は、いまでも9条を「非現実的」に解釈する傾向にある。しかもそのような絶対平和思想が9条の原点であるかのように喧伝されている。しかしもともとの立案者は、決してそのように考えていなかったということをくり返し述べておきたい*56。   第3段階 総司令部案の提示から3月2日案の作成まで

 1946年2月13日、渋谷の外務大臣官邸で総司令部案が日本側に交付された。総司令部民政局からは局長のホイットニー准将はじめ、ケーディス大佐、ラウエル中佐およびハッシー中佐が来訪。日本側からは松本国務大臣、吉田外務大臣、白洲終連事務局次長らが迎えた。  会談の冒頭、ホイットニー局長は、マッカーサー連合国最高司令官が日本側の提出した憲法案は自由と民主主義という観点から、とても受けいれることのできないものと判断し、ここに総司令部内で作成したモデル憲法を持参したと述べ、用意してきた日本国憲法案を提示した。  このような行為に日本側が驚いたことはいうまでもない。秘かに総司令部内で日本国憲法案が作られていたという事実も意外であったが、内容それ自体も驚きであった。  まず前文があって、理想的なことが記されている。つぎに本文に入り、1条では、天皇が象徴(symbol)であると書かれている。象徴という言葉は、法律用語としてまったくなじみのないもので、松本大臣は、何か文学書みたいなことが書いてあると感じた*57。そして、8条の戦争放棄条項・・・。まったく目新しい規定がいくつも並べてあり、とてもその場で判断できず、閣議で相談した上で返答をすると約束した。  さて、その後、松本国務大臣は幣原首相と相談し、『憲法改正案説明補充』を2月18日に総司令部へ提出したが、受けいれられるところとならず、翌19日、閣議が開かれ、これまでのいきさつが説明された。松本大臣と吉田大臣を除く各大臣は、13日以降の動きを初めて聞いたのであるから、驚愕したことはいうまでもない。総司令部は20日までに総司令部案を基本的に受諾するのかどうか返答するようにと要求していたので、内閣としては、とりあえず暫時返答を延期してほしいと申し入れ、幣原首相がマッカーサー元帥と会談することになった。  こうして2月21日、両首脳の会談がもたれ、マッカーサー元帥の眼目は象徴天皇制と戦争放棄の二つの項目であることがわかった。このときの戦争放棄条項に関する両首脳のやりとりについて、幣原首相の閣議での報告を『芦田日記』は、次のように綴っている*58。

 「吾等(注・総司令部)がBasic formsといふのは草案第1条と戦争を抛棄すると規定するところに在る。(第1条に)主権在民を明記したのは、従来の憲法が祖宗相承けて帝位に即かれるといふことから進んで国民の信頼に依つて位に居られるといふ趣意を明かにしたもので、かくすることが天皇の権威を高からしめるものと確信する。  又軍に関する規定を全部削除したが、此際日本政府は国内の意嚮よりも外国の思惑を考へる可きであつて、若し軍に関する条項を保存するならば、諸外国は何と言ふだらうか、又々日本は軍備の復旧を企てると考へるに極つてゐる。  日本の為めに図るに寧ろ第2章(草案)の如く国策遂行の為めにする戦争を拠棄すると声明して日本がMoral Leadershipを握るべきだと思ふ。」

幣原は此時語を挿んでleadershipと言はれるが、恐らく誰もfollowerとならないだらうと言つた。  MacArthurは、  「followersが無くても日本は失う処はない。之を支持しないのは、しない者が悪いのである。松本案の如くであれば世界は必ず日本の真意を疑つて其影響は頗る寒心すべきものがある。かくては日本の安泰を期すること不可能と思ふ。此際は先づ諸外国のReactionに留意すべきであつて、米国案を認容しなければ日本は絶好のchanceを失ふであらう。」  第1条と戦争抛棄とが要点であるから其他については充分研究の余地ある如き印象を与へられたと、総理は頗る相手の態度に理解ある意見を述べられた。

 このような会話からも、9条幣原発案説に疑問がもたれることはすでに述べた通りであるが、それはともかく、この日の閣議で戦争放棄条項に関し、閣僚からの発言として、芦田厚生大臣は、戦争放棄条項はケロッグ・ブリアン条約や国際連盟規約にも盛りこまれており、決して耳新しいものではない。わが国もこれらに署名した経緯があるのだから、松本先生の学識と経験とをもってすれば、総司令部案を土台にした条文を立案することも可能ではないかと述べた。発言者の何人かは、総司令部案との妥協は可能であると述べたなかで、安部文部大臣は、国民主権といい、戦争放棄といい、やはり両者の懸隔はかなり大きいとみるべきではないかと発言し、沈痛な雰囲気になった場面もあったという。*59  この閣議の午後、松本国務大臣と吉田外務大臣は、ホイットニー局長を訪問、戦争放棄条項について、前述のごとく、松本大臣の方から前文に挿入することを提案したが、ホイットニー局長により拒否され、むしろ同条項を1条に入れたいと思っているほどだ、と告げられた*60。  こうして、松本大臣の強い抵抗にもかかわらず、総司令部案をもとにした憲法案を松本大臣が中心になって書き上げることになった。同大臣は入江法制局次長、佐藤法制局部長に応援を求め、総司令部からの矢のような催促のなか'で、3月2日、一応の案(3月2日案)を作成した。同案では、天皇の章に1か条が加わり、戦争放棄条項は、9条に下げられた。   第2章 戦争の廃止   第9条 戦争ヲ国権ノ発動ト認メ武力ノ威嚇又ハ行使ヲ他国トノ間ノ争議ノ解決ノ具  トスルコトハ永久二之ヲ廃止ス。    陸海空軍其ノ他ノ戦力ノ保持及国ノ交戦権ハ之ヲ認メズ。

Chapter 2

ABOLITION

OF WAR Article Tx

The recognition of war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force is forever abolished as a means of settling disputes with other nations. The maintenance of land,sea,and air forces,as well as other war potential,



and the right of belligerency of the state will not be recognized.



この案文は、3月4日に総司令部に提出され、徹夜の作業となって、翌5日、両者の合意が成立、以下の案(3月5日案)となった。総司令部側の判断で、2項の「陸海空軍其ノ他ノ戦力ハ之ヲ認メズ」(will not be recognized)では弱く、will never be authorized を入れるように指示され*61、また「保持ハ、之ヲ許サズ。国ノ交戦権ハ・・・」と2文に分けられることになった。

第2章 戦争ノ放棄*62   第9条 国家ノ主権ニ於テ行フ戦争及武力ノ威嚇又ハ行使ヲ他国トノ間ノ争議ノ具ト スルコトハ永久ニ之ヲ放棄ス。   陸海空軍其ノ他ノ戦力ノ保持ハ之ヲ許サス。国ノ交戦権ハ之ヲ認メス。

Chapter 2

RENUNCIATION OF WAR


Article \ War,as a sovereign right of the nation,and the threat or use of


force,is forever renounced as a means of settling disputes with other nations. The maintenance of land,sea,and air forces,as well as other war potential,


will never be authorized.The right of belligerency of the state will not be


recognized.

 上記の案と2月13日提示の総司令部案と比較してみると、総司部案では1項は二つの文章になっていたが、3月2日案では一つの文章にまとめられ、「他国トノ問ノ争議ノ解決ノ具トスルコトハ」という辞句が戦争にもかかるように読めることとな.つた。また3月5日案において、「戦争」と「武力ノ威嚇又ハ行使」を「及」で結ばれたためにさらに強まった。このような辞句の変更により、意味もはっきり違うようになったのかどうかが問題となる。この部分を担当したのは松本大臣自身である。松本大臣は、この当時のことについていくつかの手記や談話を.残しているが、一つにまとめた理由について、明確な説明を残していないようである*63。  このとき松本大臣を補佐した入江次長は、「戦争といい、武力の行使といい同じようなものであるから、双方一つの文章にまとめたらよかろうというので案文をつくつたようであるが、当時としては、後日戦争放棄について憲法第九条の解釈につき、はげしい論争の起ることを予想せず、単に1項としては、観念を整理するつもりでアメリカ交付案とも趣旨は異ならないものの如く考えて一つの文章にまとめて立案したのだつたと思います。」と述べている*64。  また佐藤部長は、次のように述べている*65。「マ草案のそれとはちがった方向において−『戦争』と『武力ノ威嚇又ハ行使』の両方に『他国ノ間ノ争議ノ解決ノ具トスルコトハ』という条件がかかることになり、第1項に関する限り、自衛戦争は認められることになる−はっきりされることになった。・・・この点は、後の芦田修正に関連してのケーディス発言とともに私にとっての謎であり、また、同時に、当時の日本案第9条第1項の英訳がどうなっていたかを記憶せず、その間の経緯をつきつめていなかったことははなはだ残念である。」  こうしてみると、松本大臣の近くで案文の整理にかかわった入江、佐藤とも、同大臣が二つの文章を一つの文章にまとめた意味について、特段の意識をもっていなかったようである。しかしながら、文法的には、「他国トノ間ノ争議ノ解決ノ具」が「戦争」にも「武力ノ威嚇又ハ行」にかかるようになったのだから、明らかに違う文体になったといえよう。笹川隆太郎・布田勉共稿論文も、次のごとき判断をくだしている*66。「本条に関しては、英和相互間の翻訳及び推敲の過程で当事者がそれと自覚しないうちに、後に解釈論上問題とされることになる類の重要な文言上の変化が生じたように思われる。」  上記の3月5日案は、最終的に3月6日の閣議を経て、『憲法改正草案要綱』として発表された。同『要綱』中の第9は、次のようになった。

第2章 戦争ノ抛棄  第9 国ノ主権ノ発動トシテ行フ戦争及武カニ依ル威嚇又ハ武力ノ行使ヲ他国トノ間 ノ紛争ノ解決ノ具トスルコトハ永久二之ヲ拠棄スルコト   陸海空軍其ノ他ノ戦カノ保持ハ之ヲ許サズ国ノ交戦権ハ之ヲ認メザルコト   Chapter 2

RENUNCIATION OF WAR


Article 9.War,as a sovereign right of the nation,and the threat or use of


force,is forever renounced as a means of settling disputes with other nations. The maintenance of land,sea,and air forces,as well as other war potential,


will never be authorized.The right of belligerency of the state will not be


recognized.

 上記に明らかなように、英文も、総司令部案においては二つの文章とされていたが、当然に一つの文章とされ、as a means of settling disputes with other nationsがwarと the threat or use of forceの双方にかかるようになった。  このような急速の変化につき、3月20日、幣原首相は、枢密院で非公式に説明している*67。それによると、2月21日、マッカーサー元帥と長時間にわたって会談をしたこと、2月27日以来、マッカーサー元帥は急に政府に対し憲法草案の内示を強く迫ったこと*68、3月4日にいたり松本国務大臣試案として総司令部に内示したところ、双方の係官により徹夜の作業で草案の概要ができあがったこと、5日には大体の方向が見きわめることができたので天皇に内奏し、天皇から激励的勅語を賜ったこと、さらに5日の夜も法制局の係官が中心となって徹夜で草案作りに励み、6日に臨時閣議にはかり、同日夕刻、憲法草案を中外に発表した。  このとき、枢密院書記官長の職にあった諸橋襄によると、本来、政府がこのような要綱を発表をするにあたっては、事前に枢密院に諮詢されなければならないことになっていたが、法制局長官から、総司令部の方で急いで発表するように求めているので、特別の取扱いを認めてほしいという要請があり、鈴木貫太郎議長の同意を得て、枢密院としてあえて了解したとのことである*69。  幣原首相は、草案中、とくに重要な点は、国体の本義に関する点と戦争抛棄を宣言した部分にあると思うと述べ、上記第9について、以下のように説明した。

 次ニ第九ハ何処ノ憲法ニモ類例ハナイト思フ、日本ガ戦争ヲ抛棄シテ他国モ之ニツイテ来ルカ否カニ付テハ余ハ今日直ニサウナルトハ思ハヌガ、戦争抛棄ハ正義ニ基ク正シイ道デアツテ、日本ハ今日此ノ大旗ヲ掲ゲテ国際社会ノ原野ヲ単独ニ進ンデ行クノデアル、其ノ足跡ヲ踏ンデ後方ヨリ従ツテ来ル国ガ有ツテモ無クテモ、顧慮スルニ及バナイ、事実ニ於テハ原子爆弾ノ発明ハ世ノ主戦論者ニ反省ヲ促シタノデアルガ、今後ハ更ニ之ニ幾十倍幾百倍スル破壊的武器モ発明サレルカモ知レナイ。今日ハ残念乍ラ世界ハ尚ホ旧態依然タル武力攻撃ヲ踏襲シテ居ルケレドモ他日新ナル兵器ノ偉力ニ依リ短時間ニ交戦国ノ大小都市悉ク灰燼ニ帰シ数百万ノ住民ガ一朝塵殺セラルル惨状ヲ見ルニ至ラバ、列国ハ漸ク目覚メテ戦争ノ抛棄ヲ真剣ニ考ヘルコトトナルデアラウ。其ノ時ハ余ハ既ニ墓場ノ中ニ在ルデアラウガ其ノ墓場ノ蔭カラ後ヲフリ返ツテ列国ガ此ノ大道ニツキ従ツテ来ル姿ヲ眺メテ喜ビトシタイ。  以上ハ戦争抛棄ノ条項ニ関シ外国新聞記者ニ語ツタ余ノ所感デアル。

 この説明自体は、マッカーサー元帥との会談をふまえ、幣原首相自身の考え方を披瀝したものになっている。以後、この基本的考え方が踏襲されていく。  ただ、以下に記述する説明の末尾で、幣原首相が極東委員会の動きにふれ、マッカーサー元帥が機先を制するために秘密裏にかつ早急に草案を作成したこと、時期を失すれば、皇室の崩壊を招きかねなかったことを強調している点は、はしなくも連合国最高司令官マッカーサーと極東委員会との関係が明らかにされただけでなく、これから始まる枢密院の審議を十分に意識して、釘をさしたものと思われる。    御承知ノ通リ極東諮問委員会ハ改組サレテ極東委員会ト対日理事会ノ二ツニナツタガ、極東委員会ト云フノハ極東問題処理ニ関シテハ其ノ方針政策ヲ決定スル一種ノ立法機関デアツテ、其第一回ノ会議ハ2月26日ワシントンニ開催サレ其ノ際日本憲法改正問題ニ関スル論議ガアリ、日本皇室ヲ護持セムトスルマ司令官ノ方針ニ対シ容喙ノ形勢ガ見エタノデハナイカト想像セラル。マ司令官ハ之ニ先ンジテ既成ノ事実ヲ作リ上ゲムガ為ニ急ニ憲法草案ノ発表ヲ急グコトニナツタモノノ如ク、マ司令官ハ極メテ秘密裏ニ此ノ草案ノ取纏メガ進行シ全ク外部ニ漏レルコトナク成案ヲ発表シ得ルニ至ツタコトヲ非常ニ喜ンデ居ル旨ヲ聞居た。此等ノ状勢ヲ考ヘルオ今日此ノ如キ草案ガ成立ヲ見タコトハ日本ノ為ニ喜ブベキコトデ、若シ時期ヲ失シタ場合ニハ我ガ皇室ノ御安泰ノ上カラモ極メテ懼ルベキモノガアツタヤウニ思ハレ危機一髪トモ云フベキモノデアツタト思フノデアル。

 ところで、アメリカ人はこのような変化をいかにみていたのであろうか。  ハッシー文書には、ロバート・A.フィアリーの「日本国政府の憲法草案に関するコメント」が残されている*70。フィアリー(Rpbert Appleton Fearey,1918-)は、1941年にハーバート大学を卒業後、グルー駐日大使の秘書を務め、国務省に戻っていたが、終戦後、マッカーサー連合国最高司令官の政治顧問をしていた。その後も、ダレス国務長官の特別顧問(50−51年)、駐日米国大使館勤務(59−61年)、国務省日本東アジア担当(61−65)などを歴任し、50年には『日本の占領』(The Occupation of Japan)という著書を発行するほどの知日家である*71。  フィアリーは、コメントのなかで、まず『憲法改正要綱』を全体的に疑いなく、進歩的かつ自由主義的な文書であると評価し、戦争抛棄条項に関しては、次のように述べている。「非武装にして平和的な日本は、アメリカ政策の主要目的であるから、日本が憲法の中で、永久に非武装であると明言することは非常に喜ばしいことだ。・・・日本人がどのような決定を下すかにかかわりなく、事実として日本が再び世界平和を脅かすようになる可能性がある以上、日本には永久に再軍備は認めないというのがアメリカと連合国の固定した政策である。」  ここにわれわれは、1945年9月22日の『降伏後における米国の初期の占領政策』の「究極の目的」を想起することができる。すなわちその第一に「日本国が再び米国の脅 威となりまたは世界の平和および安全の脅威とならないことを確実にすること」がかかげられている。総司令部は、日本国憲法9条をその一環として位置づけており、フィアリーも同じ認識をもっていたことが理解できる。それゆえ、かれにとって英文の細かい変更などは、考慮外であった。

第4段階 政府案の作成から帝国議会へ提出するまで

 内閣は、『要綱』を法文化する作業に着手した。法文化にあたり、より細かい詰めの作業をするべく、総司令部と4月2日、4月9日、4月12日および4月15日の4次にわたる会談をおこなった*72。これらのいずれの会談においても、9条に関しては、まったく話題にのぼっていない。  むしろ政府部内において、検討課題が整理されている。法制局は、『要綱』について、関係当局と協議したうえで、3月24日、「要綱ニ関スル問題」をまとめたが、「戦争の抛棄」の部分では、次の問題点が指摘されている。  (1)第二項アレバ第一項ハ不要ナルヤ  (2)侵略ニ対スル自衛権ハ認メラレルヤ  佐藤達夫のメモには、「事実ニ於ケル防禦戦ハ可能ナルベシ宣戦等ハ出来ヌ(武力ナクシテハ事実上モ不可能」という書きこみがあるという。そして佐藤自身、著書の注として、次のように記している*73。「なお、外務省との打ち合わせでは、制裁戦争のことも話題に出ている。」  その外務省は、外交問題、条約関係について、かなり詳しい問題点を摘記しているが、9条についても、基本的な問題点を指摘した。すなわち、4月5日、条約局の名で「改正憲法草案ニ付テ」と題し、@交戦権の不承認規定は、他国よりむりやりに戦争をしかけられてきたら、十全に対応できなくなるのではないか、A国際連合に加盟すれば、集団的制裁として戦争をおこなう義務を負うことになるのではないかなどの疑問点を提起し、結論として、次のように記述している*74。

 交戦権ノ不承認ハ其ノ意図スル所カ凡ユル戦争ノ排除ヲ目途トスルモノナリトスルモ実際上ヨリモ将又法理論ヨリスルモ必スシモ適当ト認メラレス。第九条第一項ニ於テ既ニ侵略的意味ノ戦争ヲ抛棄シ第二項ニ於テ陸海空軍ノ保有ヲ認メサルノ建前ヲ執リ居ルヲ以テ国内的ニハ充分戦争防止ノ措置ヲ執リタルモノト言ヒ得ヘク更ニ進ンテ『交戦権ノ不承認』ヲ唱フルノ要ナカルヘシ。依テ本句ヲ削除スルカ又ハ第一項中ニ挿入シ侵略戦争ノ如キ場合ニ交戦権ヲ認メサルノ趣旨トナスヲ適当ト思考ス。

 要するに、9条1項で侵略戦争の抛棄を明記しているのであるから、それで充分であって、2項の「交戦権の不承認」は削除するか、あるいは1項にもっていって、侵略戦争との関連で「交戦権の不承認」を定めるべきだというのである。まさにこんにち、憲法改正ではこの点も大きな争点になっており、先取りした問題提起だったといえる。  さて、日本国内部では、このような動きがあったものの、憲法改正案は、4月16日に閣議決定され、翌4月17日、枢密院の諮詢を経て、同日、次のような『憲法改正草案』が公表された。なお、公表に際して、従来の片かな・文語体から、平かな・口語体とされ、新しさが際だった。

第2章 戦争の抛棄   第9条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との問の紛争の解決の手段としては、永久にこれを拠棄する。  陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。

Chapter 2 RENUNCIATION OF WAR  Article \ War,as a sovereign right of the nation,and the threat or use of



force,is forever renounced as a means of settling disputes with other nations. The maintenance of land,sea,and air forces,as well as other war potential,



will never be authorized.The right of belligerency of the state will not be



recognized.

 上記の案文について、佐藤達夫は、口語体にしたことにより、『要綱』よりもいっそう英文に近づき、したがって、「他国との問の紛争の解決の手段としては、」が「戦争」にもかかることが明瞭になったといえよう、と記述している*75。  しかしながら、このころ法制局で作成された『憲法改正草案逐条説明』および『憲法改正草案に関する想定問答』では、9条をかなりユートピア的にとらえている*76。これらのドキュメントは、4月から6月にかけて準備されているが、4月に作成された『憲法改正草案逐条説明(第一輯)』には、9条が憲法草案の最大の特色をなすものであるとして、次のように説明されている。    第一項は、わが国が、他国との間に生ずることあるべき紛争の解決の手段としては、従来国際法学者の所謂国の主権の発動として行ふ戦争を永久に抛棄する旨、それから、又わが国が同様の手段としては、武力を用いて他国を威嚇すること乃至武力を行使することを、永久に抛棄する旨を定めた。又第二項は前項を承けて、戦争を抛棄するに伴って戦争の為に必要とせらるる所の陸海空軍その他の戦力の保持は、わが国においては許されないこと及び普通国の基本権として挙げらるる国の交戦権なるものは、わが国においては認められないものであることを定めた。・・・  わが国は、生存と安全とを挙げて此等諸外国の誠意に委せんとするものである。おそらく、諸外国も、若しわが国民が最近十年間に嘗めた様な苦しい経験を感悟するに至らば、進んで本案に掲げる原則を是認し、わが国の例に追随する至ること疑を容れない。

 また、同月の『憲法改正草案に関する想定問答(第三輯)』には、次のごとき文章がある。

 そもそも本条の原則は理論上国の自衛権の発動を否認するものではないが、実際上、戦力の保持を認められない以上は、かかる自衛権を肯定して見ても実益はない。本条の真義を発揮し得るには、諸外国挙って同一の原則を採ることが前提であるといふべきである。従て諸外国の意図を問はずに、一方的に本条の如き宣言をなすことは或る意味に於て、行き過ぎであるとも言ひ得るのであるが、かかる場合には世界の正義感に訴へて、侵略行動を排除する方法も発見し得べく、わが国としてはむしろ世界の習俗に抗し進んで理想に進むことが、却て将来のわが国の生きる途であることを疑はざる次第である。

 ここにおいて自衛権を肯定しても「実益がないこと」、「世界の正義感に訴へて」、「世界の習俗に抗し進んで理想に進む」ことが9条の本旨であると考えていたわけである。  さて、この憲法改正草案は、枢密院で審査にかけられた。まず4月18日、諸橋書記官長のもとで下審査がおこなわれ、入江法制局長官らが説明をした。ついで、潮恵之輔を委員長にし、12人からなる審査委員会がもうけられた。審査委員会は、4月22日の第1回審査会を皮切りに5月15日まで8回開かれている。  幣原首相は、4月22日の第1回審査委員会において、3月20日とほぼ同じような説明をなした*77。  この説明のあと、枢密院の委員と政府とによって質疑応答がなされている。以下、9条に関する質疑応答のもようをみてみよう。  4月24日の第2回審査委員会における状況は、次のようである。    林委員  第九条ノ戦争抛棄二関シ、自衛権ハ第一項ニ於テハ存在スルガ如ク解セラル、第二項ニ於テハ之ヲ認メザルガ如シ、自衛権ハ認メラルゝモノト解スル余地アリヤ  松本国務大臣  第一項二於テハ然カク解スルノ余地アリ、第二項ニ於テハ事実上戦争ハ行ヒ得ザルベキモ、外部ヨリ戦ヒヲ仕掛ケラレタル場合ニモ自衛行為ヲ禁セラルコトノ不合理ハ勿論ナリ、而シテ自衛権ヲ明定セザリシハ却ツテ之二名ヲ籍ルノ倶ヲ避ケントスル趣旨ナリ  野村委員 自衛ノ為ノ戦ヒハ交戦権ニ含マレザルヤ  松本国務大臣 第九条第二項ノ「交戦権」トハ宣戦ヲ布告シタル戦争ノ謂ニシテ、自衛行為ヲモ禁ズル趣旨二非ズ  遠藤委員 1 外国トノ戦争ナレバ当然主権ノ発動ト考ヘラルゝモ「国の主権の発動」トハ如何ナル意ナリヤ  2 「交戦権」トハ戦ヒヲ仕掛クル権利ト解シ可ナルヤ、通説ニヨレバ殺人ハ不法ナルガ戦争ノ場合ニ於テ正当行為トナルハ交戦権ノ発動ニヨルモノナリ、寧ロ「交戦権」ノ語ヲ削除シテハ如何  松本国務大臣 1 学理上ハ不要ナルが如キモ特二明示シタル趣旨ナリ  2 自衛行為ガ普通ノ犯罪ト認メラルゝガ如キハ道理二反セリ  関屋委員 国家連合ニ加入スルニハ兵力保持ヲ条件トスルガ如キモ本案トノ関係如何  松本国務大臣 将来然ルベキ場合ニハ憲法改正ノ要アルベシ

 上の松本大臣の答弁のなかで、いくつか注目される部分がある。  一つは、9条の1項では自衛権は否定されていないと明言している点である。これはおそらくケロッグ・ブリアン条約を想定してのものであったろうと思われる。  二つは、9条2項において、陸海軍その他の戦力を保持しないのであるから、事実上戦争行為はできないが、外敵からの侵入があったときは当然に自衛行為が可能である、ただし、自衛の名のもとに日本国が侵略行為をおこなう危険性を避けるために、あえて自衛権の存在を明記しなかったのであると述べている点である。  三つは、「交戦権」の否認は、宣戦布告の禁止であって、自衛行為そのものまで禁じられているのではないと考えていた点である。  そして四つは、国連加入に際し兵力保持が条件になるときは、憲法改正が必要であると思っていた点である。  以上のごとく、この段階では、政府は戦争放棄や戦力の不保持、ならびに交戦権の否認が憲法に明定されていても、自衛行為そのものまで禁じられているとは考えていなかったのである。  つぎに、5月6日の第4回審査会で、9条に関する集中審査がおこなわれた。

 林委員 1 第九条ノ規定ハ自衛権ヲ認ムルモノナリヤ  2 戦力ヲ保持セザレバ国際連合ニ加入スルヲ得ズト解スルガ如何  入江法制局長官 1 第九条第一項ノ規定ニ於テハ法律観念的ニ自衛権ハ存スベキモ第二項ノ規定ニヨリテ交戦権無キガ故ニ主導的タルト受動的タルトヲ問ハズ戦争ハ不可能ナリ、故ニ戦争ノ形式ニ於テハ自衛権ヲ行使スルヲ得ザルモノト解ス  2 国際連合憲章ノ解釈ニヨリテハ加入ノ際ニ武力ノ提供ヲ免除セラルゝコトモ可能ナルベシ  林委員 1 国際連合ノ加入ニ関シ憲法ノ改正ヲ行ヒテ加入スルノ説ト、加入スルモ武力提供ノ義務ヲ免除セラルゝトナス説ノ二説中政府ハ何レヲ採ルヤ  2 本案ハ国民ノ基本的人権尊重ニ急ニシテ、国家ノ基本的権利ニ関シテハ自衛権ノ存否スラ疑ハルゝ如ク之ガ保証ニ充分ナラザルハ不調和ノ嫌ナキヤ  松本国務大臣 1 国際連合ノ将来ハ不明ニシテ、質問ノ何レヲ採ルヤハ今後ノ情況ニヨリ決定セラルゝヲ至当ト思料ス  入江法制局長官 2 根本観念トシテハ貴見ノ通ナルガ、本案ニテハ謂ハバ捨身ノ態度ヲ表明セルモノナリ  野村委員 「戦力の保持は許される」(注・原文のまま。ただしここは「戦力の保持は、許されない」とされなければならないはず)トアルハ主権者タル国民ガ之ヲ許サザルヤ、或ヒハ外部ノ圧力ニヨリテ保持シ得ザルノ趣意ナリヤ  入江法制局長官 新日本ノ根本的立前トシテ戦力ノ保持ヲ許サレザル旨ノ本質ヲ表明セル意ナリ  井坂委員 第九条ハ国際間ノ紛争ニ関シ戦力ノ保持ヲ許サゞル規定ナルガ、国内ノ紛擾ニ対スル措置如何  入江法制局長官 将来ハ充分ナル警察力ノ保持ニ進マザル可ラズ  遠藤委員 「政府ニ於テ左ノ諸措置ヲ採ラレンコトヲ希望ス  1 「主権の発動」ノ字句ヲ削除スルコト  2 不戦条約ノ表現ニ倣ヒ戦争ヲ狭義ノソレトスルコト  3 第二項ノ規定ハ日本ノ独立性ヲ稀薄ナラシムル感アルヲ以テ適当ナル表現ニ改メ度キコト  4 「交戦権」ノ字句ヲ削除スルコト  潮委員長 「戦争の抛棄」トハ日本語トシテ意味ヲ成サヌ旨ノ意見アリ、政府ノ所見如何  松本国務大臣 戦争テフ観念ヲ拠棄スルノ意ニ解スル外ナシ

 上記の問答において、とくに入江法制局長官の答弁中、国連加入の際、武力提供の免除が可能かもしれない、9条はいわば捨身の態度を表明している、国内の紛擾に際しては警察力を強化する、と述べている点が注目されよう。  以上のごとき枢密院での審査を経たうえで、政府は、5月24日、憲法草案全体について文言上の手直しをし、翌5月25日、改めて枢密院へ諮謁した。  憲法9条については、次のような文言になった。

第2章 戦争の抛棄 第9条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。  陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。」

Chapter 2

RENUNCIATION OF WAR Article \ War,as a sovereign right of the nation,and the threat or use of



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will never be authorized.The right of belligerency of the state will not be



recognized.

 変更された点は、2項が「陸海空軍その他の戦力は、許されない」とか「国の交戦権は、認められない」というように受動態であったのを、能動態にしたことである。これは前記野村委員の質疑にみられるように、受動態であれば、外部の圧力によって、「許され」なくなり、また「認められ」なくなったというふうに受け取られることを懸念したものと思われる(なお英文には変更がない)。  このような枢密院審議との関係で、法制局は、5月に前の月より詳細な『逐条説明』と『想定問答』を作成した。    第一項は、国の主権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する旨の規定であります。これにより今後我国はいかなる場合と雖も、主権の発動として国際紛争の解決手段として戦争と武力の行使に訴へないことを宣言したのであります。  この様に本条第一項は、国の主権の発動たる戦争と武力の行使とを全面的に禁止したのでありますが、第二項は第一項の実行せらるれることを二つの面から保障した規定であります。  即ち第二項前段は陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならないと定めまして、事実上戦争を不可能ならしめると云ふ面からこれを保障したのであります。(国内の治安維持のために必要な武力に関する例外規定をも設けて居ないことも亦この趣旨を徹底したものと云ふべきであります。)*78  次に第二項後段は、法律上戦争を不能ならしめると云ふことを定めたものであります。即ちこれにより我国が仮に事実上他国との間との交戦状態に入ったとしても、国際法上に於ける交戦者たるの地位を憲法上認められないことゝなるのであります。     ここに、4月の『逐条説明』では、条文をなぞるような説明であったが、5月の『逐条説明』では、基本的に同じ趣旨ではあるが、1項において今後わが国はどんな場合でも戦争と武力の行使に訴えないことを強調し、2項でそれを具体的に担保するものとして、陸海空軍の不保持と交戦権の否認を明記したものであることを確認している。  ところで、5月22日に吉田内閣が成立したことにともない、これまでの慣例に従い、枢密院への諮調案を一度撤回し、5月29日の第1回審査会で再諮詞された。この吉田内閣のもとにおける審査会は、3回おこなわれており、第1回審査会で、元海軍大将で駐米大使も経験した野村吉三郎委員は、次のように述べて、9条2項の削除を切望している。

 武力ヲ保持セズシテ、占領軍ノ撤収後起ルコトアルベキ非常事態ニ能ク対処シ得ルカヲ深ク憂フ、降伏文書ニハ武装解除ノミヲ謳ヒ、日本ガ未来永劫ニ武力ヲ保持シ得ザルモノト解スベキ根拠ナケレバ、本官ハ第九条第二項ノ規定ハ削除サレンコトヲ切望ス。

 もとよりこれは希望表明で、実現の可能性は皆無であった。  6月8日には、枢密院本会議が開かれた。この会議には、崇仁親王(三笠宮殿下)も出席された。  会議の冒頭、潮委員長より、審査報告がおこなわれた。この報告は、審査委員会での審議の状況を簡単にまとめたものなので、どんな点が問題にされ、政府はいかなる考えで臨んだのかよく理解できる。  審査報告中、9条に関する部分は、次のようである。

 改正案は、第九条において、戦争の抛棄と戦力の撤廃を明定してゐるが、これについては、将来における我が国内治安の維持と、他国の侵略に対する自衛の行使に関し、本委員会の深憂を禁じ得なかつたところである。当局大臣はこの条項を、およそ従来の各国憲法中に類例を見ないものとし、我が国としては、他国がこれに従いて来るかどうかを顧慮することなく、正義の天道を踏み進んで行かうという決意を、国の基本法に昭示しようとするものである。現在においては、諸国はなほ武力政策に執着する状況であるが、学術の急激な進歩は、ますます恐るべき破壊力を有する武器の発明を予測させ、かやうな発明が完成された暁には、世界は初めて目を醒まし戦争の廃止を真剣に考へる時があるものと思はれる。この大勢を察し、今後は新武器の発明又は整備するよりも、全然武器使用の機会をなくすことを、目標として、この条項を草案の一眼目としたのであつて、国内の騒擾に対しては警察力の強化を期し外国の侵犯に関しては平和愛好国の信義に委ねる外はない旨の弁明を為した。    この委員長報告に続いて、顧問官の間で審議がなされ、最後に三笠宮殿下が発言を求められた。これはまことに異例の出来事であった。枢密院の会議に皇族が出席されることも異例であったが、発言を求められることはきわめて珍しいことであった。殿下と吉田首相との間に次のような質疑応答があった。

 三番(崇仁親王) およそ、国家の憲法を定めるにあたり、その先決問題として、国是が定められることが必要と考へる。本官個人としては、現在の日本は、厳正な局外中立の立場に立つ以外には、生きる途はないと思ふ。而して中立政策の日本が可能であるかどうか、又若し可能であるとしても、永くそれを維持し続け得るかどうか、の如何によつて、憲法にも変化を及ぼすのではないかと考へるので、この点について政府の所見を承知したい。  四番(吉田首相) 局外中立の意味はいささか了解し難いのであるが、当面における日本の国是は、その独立を回復して、速かに国際団体へ加入することである。  三番(崇仁親王) 次に本草案の内容についてであるが、第二章の戦争の抛棄については、日本は満州事変以来、全世界を脅威し、その不信を買つて来たが、敗戦を機に平和の方向に再出発をすること、ナチス独逸の前例もあり、警察力を強化することは望ましくないこと、日本国民から、武力を放逐することが、却つてその正義感の発達に役立つであらうと考へられること、今後の治安維持については、単に軍隊、警察の力のみに頼つては、その目的を達し得ないと考へられること等の諸理由によつて、本官は結構な規定と考へ賛意を表する。    上のなかで1番とか4番という番号は、枢密顧問官につけられているもので、1番が秩父官(雍仁親王)、2番が高松宮(宣仁親王)という具合で、1番から3番までが皇族、4番から12番までが閣僚に割り振られていた。  この枢密院本会議において、最終的に政府案が可決され、いよいよ帝国議会で審議されることになった。      第5段階 帝国議会での審議−いわゆる芦田修正の導入

 第90帝国議会は、6月20日、開会された。そのときの9条案は、次のようになっていた*79。これは、上記枢密院へ提出されたものと同じである。

第2章 戦争の抛棄

第9条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。  陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。

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will never be authorized.The right of belligerency of the state will not be


recognized.


開会にあたり、吉田首相から帝国憲法改正案の説明がなされた。9条関係については、抽象的に次のように述べているだけである。

 改正案ハ特ニ一章ヲ設ケ、戦争抛棄ヲ規定致シテ居リマス、即チ国ノ主権ノ発動タル戦争ト武力ニ依ル威嚇又ハ武力ノ行使ハ、他国トノ間ノ紛争解決ノ手段トシテハ永久ニ之ヲ抛棄スルモノトシ、進ンデ陸海空軍其ノ他ノ戦力ノ保持及ビ国ノ交戦権ヲモ之ヲ認メザルコトニ致シテ居ルノデアリマス、是ハ改正案ニ於ケル大ナル眼目ヲナスモノデアリマス、斯カル思ヒ切ツタ条項ハ、凡ソ従来ノ各国憲法中稀ニ類例ヲ見ルモノデゴザイマス、斯クシテ日本国ハ永久ノ平和ヲ念願シテ、其ノ将来ノ安全ト生存ヲ挙ゲテ平和ヲ愛スル世界諸国民ノ公正ト信義ニ委ネントスルモノデアリマス、此ノ高キ理想ヲ以テ、平和愛好国ノ先頭ニ立チ、正義ノ大道ヲ踏ミ進ンデ行カウト云フ固キ決意ヲ此ノ国ノ根本法ニ明示セントスルモノデアリマス。

 衆議院では6月25日から同月28日まで本会議において、また7月1日より同月23日まで特別委員会において、それぞれ審議された。これらの審議のなかで多くの議員が9条にふれているが、ここでは社会党の鈴木義男議員と共産党の野坂参三議員の質疑をみることにする。  まず社会党の鈴木義男議員は、6月26日の衆議院本会議で、次のような質疑をした*80。

 次ニ御尋ネヲ致シタイノハ、戦争抛棄ノ宣言ニ付テデアリマスガ、我ガ国ガ苦イ経験ニ鑑ミ、平和主義ニ徹シマシテ、我ガ国ノ安全ト生存トヲ挙ゲテ平和ヲ愛スル世界諸国民ノ公正ト信義ニ委ネマシテ、政策トシテノ戦争ハ之ヲ抛棄シ、一切ノ軍備ヲ撤廃スルト云フコトヲ国是トシマシタコトハ結構ナコトデアリマス、縦シヤ外国評論界ノ一部ニ、ソレハ子供ラシイ信念ダト嗤フ者ガアリマシテモ、過ツテ改ムルニ憚ルコトナカレデアリマシテ、我ガ国ガ先鞭ヲ付ケルコトニ依リマシテ、世界ノ国々ノ憲法ニ此ノ種ノ規定ヲ採用セシムルダケノ意気込ヲ以テ臨ムベキデアルト信ジマス(拍手)・・・  我ガ党ハ、単ニ消極的戦争抛棄ヲ宣言スルダケデナク、進ンデ平和ヲ愛好シ、国際信義ヲ尊重スルコトヲ以テ我ガ国是トスルト云フコトヲ、憲法ノ中ニ明ラカニシタイト考ヘテ居ルモノデアリマスルガ其ノコトハ姑ク措キマシテ、戦争ノ拠棄ハ国際法上ニ認メラレテ居リマスル所ノ、自衛権ノ存在マデモ抹殺スルモノデナイコトハ勿論デアリマス、其ノコトハ心配ヲシテ御質問ニナツタ方ガ二、三アルヤウデアリマスガ、御心配ハ御無用デアリマス、・・・  昨日北君ハ局外中立ヲ交渉スル用意ガアルカト質問サレタノデアリマスルガ、局外中立、殊ニ永世局外中立ト云フモノハ前世紀ノ存在デアリマシテ、今日ノ国際社会ニ之ヲ持出スノハ『アナクロニズム』デアリマス、今日ハ世界各国団結ノ力ニ依ツテ安全保障ノ途ヲ得ル外ナイコトハ世界ノ常識デアリマス(拍手)加盟国ハ軍事基地提供ノ義務ガアリマス代リニ、一タビ不当ニ其ノ安全ガ脅カサレマス場合ニハ、他ノ六十数箇国ノ全部ノ加盟国ガ一致シテ之ヲ防グ義務ガアルノデアル、換言スレバ、其ノ安全ヲ保障セヨト求ムル権利ガアルノデアリマスカラ、我々ハ、消極的孤立、中立政策等ヲ考フベキデナクシテ、飽クマデモ積極的平和機構ヘノ参加政策ヲ執ルベキデアルト信ズルノデアリマス(拍手)。

 この頃、社会党は政府の憲法改正草案に対し修正案を作成しており、第2章「戦争の抛棄」に関しては、次の見解を発表していた*81。

 草案第九条の前に一条を設け『日本国は平和を愛好し、国際審議を重んずることを国是とする』趣旨の規定を挿入。  第九条と共に之を総則に移すも可。

 鈴木議員は、このような修正案を懐にいれながら、質疑にのぞんだわけであるが、上記質疑のなかで注目される点がすくなくとも二つあるよう思われる。  一つは、憲法に戦争放棄条項があっても、自衛権の存在まで否定するものでは絶対にないと断言していることである。  二つは、永世局外中立が前世紀の遺物であってアナクニズムであると明言していることである。  ここに局外中立とは、国際法の概念で、他国で戦争や内乱などの戦闘状態が生じた場合に、いずれの紛争当事国(当時団体)に対しても、いかなる関与もおこなわない行為と解されている。  鈴木義男(1894−1963年)は、東大卒業後、英米仏伊へ留学、帰国後、東北帝大、法政大学の行政法担当の教授を歴任し、学識経験が豊かであった。このときは、社会党の中央執行委員の地位にあった。  同議員が局外中立を前世紀の遺物呼ばわりしていることは、その後の社会党が長年にわたって唱えてきた非武装中立政策と照らし合わせると、きわめて興味がひかれよう。  なお、これに対する金森国務大臣の答弁は、次のようにかなり素気ないものであった。

 第二章ノ戦争抛棄ノ関係ニ於キマシテ、此ノ自衛権ハ勿論存スルト云フ御前提カラ、更ニ外交的ナル手段ヲ以テ世界ニ呼ビ掛ケルト云フ気持ハ持ツテ居ルガ、努力スル其ノ腹案ニ付テ御尋ネニナリマシタガ、是ハ総理大臣ガ他ノ機会ニ於テ御説明ニナリマシタ通リ、左様ナ考ヘヲ心ノ中ニ描イテ居ルケレドモ、現実ノ問題トシテハ之ヲ明カニスルニハ時期ガ適当デナイ、斯ウ云フ意味ニ御考ヘヲ願ヒタイト思ヒマス。

 つぎに、6月28日の衆議院本会議において、有名な野坂・吉田論争がおこなわれた。共産党を代表して野坂参三議員は、同党の主張を交えて次のように質疑をした*82。    偖テ最後ノ第六番目ノ問題、是ハ戦争拠棄ノ問題デス、此処ニハ戦争一般ノ拠棄ト云フコトガ書カレテアリマスガ、戦争ニハ我々ノ考ヘデハ二ツノ種類ノ戦争ガアル、二ツノ性質ノ戦争ガアル、一ツハ正シクナイ不正ノ戦争デアル、是ハ日本ノ帝国主義者ガ満州事変以後起シタアノ戦争、他国征服、侵略ノ戦争デアル、是ハ正シクナイ、同時ニ侵略サレタ国ガ自国ヲ護ル為メノ戦争ハ、我々ハ正シイ戦争ト言ツテ差支ヘナイト思フ、此ノ意味ニ於テ過去ノ戦争ニ於テ中国或ハ英米其ノ他ノ聯合国、是ハ防衛的ナ戦争デアル、是ハ正シイ戦争ト言ツテ差支ヘナイト思フ、一体此ノ憲法草案ニ戦争一般抛棄ト云フ形デナシニ、我々ハ之ヲ侵略戦争ノ抛棄、斯ウスルノガモツト的確デハナイカ、此ノ問題ニ付テ我々共産党ハ斯ウ云フ風ニ主張シテ居ル、日本国ハ総テノ平和愛好諸国ト緊密ニ協力シ、民主主義的国際平和機構ニ参加シ、如何ナル侵略戦争ヲモ支持セズ、又之ニ参加シナイ、私ハ斯ウ云フ風ナ条項ガモツト的確デハナイカト思フ。

 この6月28日は、共産党が独自の『日本人民共和国憲法(草案)』を発表する前日にあたる。野坂参三(1892−1993年)は、慶応義塾大学理財科を卒業後、日本共産党へ入党、1930年に同党を代表してモウクワに送られ、その後中国の延安で反戦運動を指導、46年1月に帰国した。帰国直後におこなわれた日比谷公園での演説会は、多くの聴衆を魅了した*83。その後、92年12月には密告の疑いから党を除名されたが、長く共産党の顔といってよい存在であった。野坂議員は、党を代表する立場から、同党の憲法草案を前提にして、政府に対し、憲法で禁止すべき戦争を侵略戦争に限定し、民主的な国際平和機構に参加することをうながすような憲法条項が的確ではないかと政府に迫ったわけである。  ちなみに、6月29日発表の『日本人民共和国憲法(草案)』5条には、以下のような文言が配されている*84。

 日本人民共和国はすべての平和愛好国と緊密に協力し、民主主義的国際平和機構に参加し、どんな侵略戦争をも支持せず、またこれに参加しない。

 野坂の発言がこの草案に依拠していることは、一目瞭然である。なお、この憲法草案は、いまでも同党の憲法案として有効なものとされている*85。  この野坂議員の質疑に対して、吉田首相は次のように答弁した。

 戦争抛棄ニ関スル憲法草案ノ条項ニ於キマシテ、国家正当防衛権ニ依ル戦争ハ正当ナリトセラルゝヤウデアルガ、私ハ斯クノ如キコトヲ認ムルコトガ有害デアルト思フノデアリマス(拍手)近年ノ戦争ハ多ク国家防衛権ノ名ニ於テ行ハレタルコトハ顕著ナ事実デアリマス、故ニ正当防衛権ヲ認ムルコトガ偶ゝ戦争ヲ誘発スル所以デアルト思フノデアリマス、又交戦権抛棄ニ関スル草案ノ条項ニ期スル所ハ、国際平和団体ノ樹立ニアルノデアリマス、国際平和団体ノ樹立ニ依ツテ、凡ユル侵略ヲ目的トスル戦争ヲ防止シヨウトスルノデアリマス、併シナガラ正当防衛ニ依ル戦争ガ若シアリトスルナラバ、其ノ前提ニ於テ侵略ヲ目的トスル戦争ヲ目的トシタ国ガアルコトヲ前提トシナケレバナラヌノデアリマス、故ニ正当防衛、国家ノ防衛権ニ依ル戦争ヲ認ムルト云フコトハ、偶ゝ戦争ヲ誘発スル有害ナ考ヘデアルノミナラズ、若シ平和団体ガ、国際団体ガ樹立サレタ場合ニ於キマシテハ、正当防衛権ヲ認ムルト云フコトソレ自身ガ有害デアルト思フノデアリマス、御意見ノ如キハ有害無益ノ議論ト私ハ考ヘマス(拍手)。

 このように、野坂議員が、共産党は正しい戦争、すなわち防衛戦争を肯定する立場であるということを明らかにしたうえで、政府の考えを問うたわけであるが、これに対する吉田首相の答弁は、前掲のごとく、「正当防衛権ヲ認ムルコトソレ自身ガ有害デアル」というもので、自衛権すら否定するような内容になった。このような答弁は、先の進歩党の原議員に対する吉田首相自身の答弁*86とも異なり、そばで聞いていた金森国務大臣は、かなり困惑したようである。  金森は、のちに次のように告白している*87。

 議会というものは妙なもので、不幸なことが起りました。まず第一は、吉田さんが本会議の説明で、ひとり侵略戦争ばかりでなく自衛戦争も禁じたのであると非常にはっきりといわれた。これはどういう感覚でいわれたのかよく判らないのです。事務当局がちゃんというべき文句まで書いてわたしてあったのだが、あっというまにいってしまった。当時の実情からして、それをすぐそう明確に修正することは不得策でした。総理大臣がこういう重大な点について比較的不注意な言葉を用いられると、あとの始末が大変難しいのです。(笑)  金森徳次郎(1886−1959年)は、東京帝大英法科を卒業、のちに法制局に入り、1934年には岡田内閣の法制局長官をつとめた。新憲法の審議のために起用されたベテランでエースでもあった。その金森からみて、吉田の答弁は危なっかしく感じたことであろう。それでは、どんな文句が総理大臣に渡してあったのだろうか。特定することは難しいが、6月に法制局で作成した『想定問答』には、次のように書かれている。

 問 第九条と自衛戦争の関係如何  答 抑々本条第一項は、国策の具としての積極的な侵略戦争の禁止に重点を置いたものでありまして、国の自衛権そのものには触れて居りませんが、本条第二項によつて一切の軍備を持ち得ず、又交戦権も認められて居ないのでありますから、自衛権の発動としても本格的な戦争は行ひ得ぬことゝなり、又何等かの形に於て自衛戦争的な反抗を行つてもそれは交戦権を伴ひ得ぬのである。従つて第二項により自衛戦争も実際上行ひ得ぬと云ふ結果となると存じます。  (本条第一項に、已むを得ず受動的に行ふ自衛戦争は除外すると云ふ様な趣旨を例外的に規定することは、自衛権の美名に隠れて侵略戦争を起こす余地を残す虞があると考へ、徹底せる平和主義の立場からこれを採らなかつたのであります。)

 上記の「答」のうち、「本条第一項に」から「これを採らなかつたのであります。」までの括弧が、いつ誰によってつけられたのかは不明であるが、非常にインパクトのある文章であり、吉田首相が影響を受けたであろうことは想像がつく。  たしかに法制局で準備したものには、自衛権そのものを否定しているとは書かれていないが、「自衛戦争も実際上行ひ得ぬと云ふ結果」になるとすれば、吉田首相が自衛権そのものまで否定したと理解したとしても、あながち無知ともいえないのではなかろうか。  けれども、吉田首相の国家正当防衛権すら否定するような答弁は、のちの自衛権行使のための武力行使を肯定する自衛隊法作成*88などに際して、かなりの抵抗に遭わなければならなかった。  衆議院では、その後、72人の委員からなる帝国憲法改正案委員会(委員長・芦田均)を組織、同委員会で7月1日から23日まで審議がおこなわれた。さらにより具体的な審議をするために、芦田均氏を委員長にし、合計14人からなる帝国憲法改正案委員小委員会を設置、同委員会は、7月25日(第1回)から8月20日(第13回)まで13回にわたり会議を開いた。この委員会は、非公開とされたため、本音の議論がなされている。その意味で、同委員会の審議内容は、非常に貴重である。とくに社会党の奮闘ぶりは特筆に値する。社会主義の理念を少しでも多く憲法のなかに入れるべく、各国の憲法動向にも言及し、熱弁をふるった。けれども、必ずしも満足のいく結果を得られなかったので、憲法施行直後の同党の機関誌では、できるかぎり早い機会の憲法改正を主張している*89。護憲に固執したその後の社会党、そしてその継承政党たる現在の社民党とは、雲泥の差がある。  この小委員会の速記録が一般に公開されたのは、日本国憲法が施行されてから約50年を経た1995年9月末のことである*90。 実は、速記録が日本で公開される以前に、アメリカではすでに公開されており、その翻訳書が出版されていた。森 清監訳、村川一郎・西

修共訳『憲法改正小委員会秘密議事録』(第一法規、1983年)がそれである。もっとも、英訳された速記録には、原本たる速記録に記載があるにもかかわらず、収録されていない部分がある。憲法案の作成にマッカーサー元帥が深く関与したことを暗示する発言、皇室財産に関する微妙な討論、9条をめぐる金森大臣の含みのある答弁などが英訳の速記録には収められていないのである。そのような部分は、41か所あるという*91。総司令部などとの関連で、日本国側において自己規制したものと考えられている*92。  さて、速記録によると、7月29日の第4回小委員会で、冒頭、芦田委員長から、9条を次のように修正することが提案された*93。

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず。国の交戦権を否認することを声明す。  前掲の目的を達するため、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを拠棄する。

 上記修正案と政府案との違いは、@政府案の1項と2項とを入れ替えたこと、A「声明す」と、やや法律にはなじまない語句が入れられたこと、B1項のはじめに「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という条句を加え、また2項の冒頭に「前項の目的を達するため」を挿入したことにある。  まず、なぜ政府案の1項と2項とを入れ替えたのか。芦田委員長の説明は、以下のようである*94。

 ソレハ極ク簡単ナ考ヘ方デ斯ウ云フ風ニシタノデス、ソレハ交戦権ヲ否認スルト云フコトハ、先ヅ戦争ヲヤラナイト云フコトノ前提デセウ、ソレダカラ初メノ原文ノ書キ方ガヲカシイ、戦争ハモウヤリマセヌト言ツテ置イテ、一番最後ニ交戦権ハ行使シマセヌト言ツテ居ル、交戦権ヲ棄テルカラ戦争ヲヤラナクナル、ソレダカラ寧ロ交戦権ヲ否認スルト云フコトノ方ガ先ニ行ク、ソレカラ陸海空軍ト云フモノガアルカラ戦争ノ手段ニナルノダガ、ダカラ軍備ハ持タナイ、交戦権ハ認メマセヌト言ツテ、然ル後ニモウ国際紛争ノ解決ノ手段トシテ戦争ハシマセヌ、斯ウ云フコトガ思想的ニハ順序ダト思フ。

 要するに、憲法では戦争をしないということが前提とされており、その前提に立てば、まず1項で戦争の手段たる陸海空軍その他の戦力や国の交戦権を否認することにより、必然的に国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄することになるのであって、このような順序が考え方として、論理的だというものである。  この点に関連して、翌日の第5回小委員会で、金森大臣から、次のような心情が吐露された*95。

 是ハ非常ニ「デリケート」ナ問題デアリマシテ、サウ軽々シク言ヘナイコトデアリマスケレドモ、第一項ハ「永久にこれを抛棄する」ト云フ言葉ヲ用ヒマシテ可ナリ強ク出テ居リマス、併シ第二項ノ方ハ永久ト云フ言葉ヲ使ヒマセヌデ、是ハ私自身ノ肚勘定ダケカモ知レマセヌガ、将来国際連合等トノ関係ニ於キマシテ、第二項ノ戦力保持ナドト云フコトニ付キマシテハ色々考フベキ点ガ残ツテ居ルノデハナイカ、斯ウ云フ考ヘ方ニナツテ居リマス、ソレガ御質疑ト直接関係ガアルカドウカ知リマセヌガ、サウ云フ考ヘデ案ヲ作ツタノデアリマス。

 まさに、「デリケート」な答弁であって*96、政府案では、1項が戦争などを「永久に」抛棄すると強く規定されているのに対して、2項には「永久」という言葉が使用されていない。とすれば、将来、2項の改正について含みをもたせることができるのではないか、こんな「肚勘定」があったというのである。結局、この金森大臣の「肚勘定」答弁がキーポイントになり、政府案通りの順序に戻された。  つぎに「声明す」(この表現は、文語体ということで、審議の過程で「宣言する」とされた)としたことに対して、芦田委員長は、かなりこだわっている。「此ノ第9条ト云フ条項ハ本当ハ箇条書デハナクシテ、是ハ前文ニ入ル程ノ文ダカラ、ソコデ之ヲ大キク出ス意味ニ於テ声明トカ宣言トカ言フ方ガ、内容ニ相応シイノデハナイカト思ツタノデス」というのが、その理由である*97。  しかしながら、社会党の鈴木義男委員から、法律用語としてはいかがかという疑問が提起され、政府委員として出席していた佐藤達夫法制局次長や金森徳次郎国務大臣らの示唆もあって、最終的に「宣言する」の語は、削除された。  また、「抛棄」について、大島多蔵委員から、持っているものを棄てるとか、実際に従事していることをやめるというときには適語であるが、実際にやっていない戦争を「抛棄」するのは文字の使い方がおかしいのではないかとの疑義が提起された。これに対して、国家が有している戦争権を抛棄するのであるから、問題はないという鈴木義男委員の意見が通った。ただ、「抛」という字は漢字制限の対象であり、芦田委員長の「仮名デ書イテハ子供ハ掃キ掃除ノ『箒』ト間違ヘル」という見解も披露され、「放棄」の文字を使用することになった*98。  さて第7回小委員会(8月1日)の会議にいたり、議論もだんだん煮詰まってきて、結論を出す時期になってきた。この頃になると、1項と2項の順序は、やはり政府案の方がよいという意見が強くなり、また「宣言する」という文言を削除すべしという空気が支配的となった。こんなことから、芦田委員長は、1項と2項の順序の入れ替えは「個人の趣味の問題」だと述べ、結論を先に延ばすことをはかった*99。けれども、委員らの要望により、同日、結着をつけることになった。  かくして、討議の結果、委員会の修正案として、次の条文が読み上げられた*100。

第2章 戦争の放棄  第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

Chapter 2

RENUNCIATION OF WAR

Article 9 Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order,the Japanese people,forever,renounces war as a sovereign right of the nation,or the threat or use of force,as a means of settling disputes with other nations.



For the above purpose,land,sea,and air forces,as well as other war potential,will never be maintained.The right of belligerency of the state will not be recognized.


この条文は、現行の憲法9条とまったく同一である。したがって、ここにおいて現行憲法の条文が完成したことになる(英文は、のちに2項の冒頭の表現を変えるなど若干の修正がほどこされた)。  なお、上の修正案について、芦田委員長は、「進歩党ノ案」として紹介している。*101世上、芦田委員長みずからの修正と呼ばれているが、進歩党案(芦田委員長は自由党所属)であったことが明らかになったことが注目される。ただし、審議のなかでさまざまの意見が開陳されており、最終的に進歩党が提出した案文にまとまったということであって、この委員会の長たる芦田の名前をとって、芦田修正と呼ぶことが否定されるべきだということを意味するわけではない。  ところで、このいわゆる芦田修正の意義と真意はどこにあったのであろうか。一般に、芦田修正といわれているのは、1項冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする司際平和を誠実に希求し」という辞句を入れたことと、2項のはじめに「前項の目的を達するため」という文言を加えたことを指す。  これらの文言を加えたことは、十分な意味を込めてのことであったと、後日、芦田は、内閣の憲法調査会で証言している*102。

 私は第九条の二項が原案のままではわが国の防衛力を奪う結果となることを憂慮いたしたのであります。それかといつてGHQはどんな形をもつてしても戦力の保持を認めるという意向がないと判断をしておりました。そして第二項の冒頭に『前項の目的を達するため』という修正を提議した際にもあまり多くを述べなかつたのであります。特定の場合に武力を用いるがごときことばを使えば当時の情勢においてはかえつて逆効果を生むと信じておりました。修正の辞旬はまことに明瞭を欠くものでありますが、しかし私は一つの含蓄をもつてこの修正を提案いたしたのであります。『前項の目的を達するため』という辞句をそう入することによつて原案では無条件に戦力を保有しないとあつたものが一定の条件の下に武力を持たないということになります。日本は無条件に武力を捨てるのではないということは明白であります。これだけは何人も認めざるを得ないと思うのです。そうするとこの修正によつて原案は本質的に影響されるのであつて、したがつて、この修正があつても第九条の内容には変化がないという議論は明らかに誤りであります。・・・  独立国家に自衛権がある限り当然抵抗は認められる。竹槍を用いようが、石ころを投げようがいずれも自衛権の作用であります。そうなれば自衛のために武力を用いることを条約をもつてしても憲法をもつてしても禁じ得るものではない。その証拠にいかなる条約にも憲法にも自衛のための武力を禁止したものは世界に存在しておりません。ただ第九条の原案第二項はこの点についてきわめてあいまいであり、いかなる場合にも武力の行使を禁じたもののごとく映る。これを明白にするためにはこの修正が多少なりとも役立つと考えたのであります。

 芦田均(1887−1959年)は、東京帝国大学法学部仏法科を卒業後、高等文官試験外交科に合格、ロシア、フランス、トルコ、ベルギーの各国で外交官として、精力的に活躍した。その間、1929年には、東京帝大より法学博士の学位を授与され、翌年、その成果が『君府海峡通航制度史論』(厳松堂)として出版されている。一方で、生来の文学好き−人間と人間性への限りない憧憬−から、漱石門下生(安倍能成功、小宮豊隆、谷崎潤一郎ら)とともに新しい文学運動に参加していたという。衆議院議員に当選したのは、1932年のことである。当選後、『東京報知新聞』の客員論説委員をつとめたり、ジャパンタイムズ社の社長職を経験している*103。  このような経歴から、芦田は、豊かな国際感覚と学識を有していたことが容易に理解することができる。それゆえ、日本国憲法の公布日と同じ1946年11月3日づけで発行した自著『新憲法解釈』のなかで次のような解釈が披瀝されている*104。

 第9条の規定が戦争と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合であつて、これを実際の場合に適用すれば、侵略戦争といふことになる。従つて自衛のための戦争と武力行使はこの条項によつて放棄されたのではない。又侵略に対して制裁を加へる場合の戦争もこの条文の適用外である。これ等の場合には戦争そのものが国際法の上から適法と認められているのであつて、1928年の不戦条約や国際連合憲章に於ても明白に規定してゐるのである。

 こうして1928年の不戦条約などを引用し、9条1項の戦争・武力による威嚇・武力の行使の放棄は、限定的であると解している。問題は、自衛のための戦力保持が可能かどうかという点である。この点につき、肯定的に解するのが芦田修正の意義とされているのだが、公開された『帝国憲法改正案委員小委員会速記録』にも『芦田日記』にも、芦田の生まの声が残されていない。むしろ、積極的な国際平和主義の精神が強調されており、非武装論に立っていたのではないのかとの推測もなされている。  たとえば、8月21日の帝国憲法改正案委員会では、芦田は、次のごとき委員長報告をなしている*105。

 第9条ニ於テ第一項ノ冒頭ニ「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」ト付加シ、其ノ第二項ニ「前項の目的を達するため、」ナル文字ヲ挿入シタノハ戦争抛棄、軍備撤廃ヲ決意スルニ至ツタ動機ガ専ラ人類ノ和協、世界平和ノ念願ニ出発スル趣旨ヲ明カニセントシタノデアリマス、第二章ノ規定スル精神ハ人類進歩ノ過程ニ於テ明カニ一新時期ヲ画スルモノデアリマシテ、我等ガ之ヲ中外ニ宣言スルニ当リ、日本国民ガ他ノ列強ニ先駆ケテ正義ト秩序ヲ基調トスル平和ノ世界ヲ創造スル熱意アルコトヲ的確ニ表明セントスル趣旨デアリマス。

 また、前記自著においても、「改正憲法が徹底した平和主義を採用したことは、我憲法に千鈞の重みを加へたものである。」と記述している*106。その他、委員会における芦田の発言は、戦争抛棄条項をかなり積極的、理想主義的にとらえており、すくなくとも、憲法成立時にあっては、いかなる場合でも戦力の不保持を規定していると把握していたのではないかとみる見方がある。  この点に関し、当時、芦田の近くにいた人たちがどのように捉えていたかをみてみよう。  まず、当時、法制局長官であった入江俊郎は、次のように論述している。  「思うに芦田氏は当時は、あくまで正論を唱え、侵略はもとより、自衛のためにも一切の戦争をしないという建前をはっきりさせようと主張していたように解されます。」*107「法文が現在のようにきまってしまった直後において、芦田氏はここに一つのヒントを得て、むしろ氏が疑問としておったことを逆手に使って、積極的に自衛のためならば軍隊を持てると主張するようになったのではないかと想像されます。」*108こうして、入江は、憲法改正を審議していた頃、芦田委員長自身は必ずしも、証言通りの考えをもってていなかったのではないかと推測する。  上記の入江の記述中、「一つのヒント」とあるが、芦田の解釈に示唆を与えたであろうと考えられるのが、法制局次長であった佐藤達夫の“耳打ち”である。佐藤は、委員会で最終案がまとまる際に、芦田小委員長に対して、「『こういう形になると、自衛のためには、陸海空軍その他の戦力が保持できるように見えて、司令部あたりでうるさいかも知れませんね。』と耳打ちしたところ、『なに大丈夫さ。』というようなことを覚えている」と語っている*109。  佐藤達夫(1904ー1974年)は、東京帝国大学法学部を卒業後、内務省に入省した。1932年に法務局へ移り、終戦時の45年には法制局第一部長、憲法審議時は法制局次長を務め、47年から54年まで法制局長官の地位にあった。法制局の最高の知恵袋だったといえる*110。  このようにみてくると、芦田がこの当時、「自衛のためであれば、戦力の保持は可能」という確たる解釈をしていたかどうかは、疑問といえるようである。もっとも、証言で述べているように、「GHQはどんな形をもつてしても戦力の保持を認めるという意向がないと判断をしておりました。そして第二項の冒頭に『前項の目的を達するため』という修正を提議した際にもあまり多くを述べなかつたのであります。」ということであれば、うなずけないわけでもないが。  それでは、当時、芦田の脳裏にのちの芦田解釈、すなわち「自衛のためであれば、戦力の保持は可能」という考えはいささかもなかったのであろうか。このとき、法制局参事官として佐藤達夫次長とともに、小委員会への出席を認められていた佐藤功は、当時の芦田には、さまざまの複雑な「屈折」した心理過程があり、佐藤達夫氏の“耳打ち”もあって、「心のどこかで」純粋な意味での「自衛のための戦力」の保持は許されるという考えをいだいていたのではないかと推論する*111。  このようなさまざまの見解があるなかで、芦田がこの時期に自衛のためであれば、軍隊保持を可能にするためとの解釈を固めていたのか、あるいは、あくまで非武装と解釈していたのか、その真意は霧の中にあるといわなければならない。  私は、この点について、ケーディスから次のような証言を得たことを報告しておきたい*112。すなわち、この修正案が小委員会で問題になったとき、芦田がケーディスのところに会いに来て、同修正案の是非をたずねたので、ケーディスは即座にオーケーを出したところ、芦田は「この修正のもつ意味を知っているのか、あなた一人の判断で大丈夫なのか、ホイットニー准将やマッカーサー元帥に聞かなくてもよいのか。」と念を押したというのである。そこには、当然この修正によって自衛力の保持が認められるという意味がこめられていたように感じたというのである。  ケーディス自身、自己の論文*113で、芦田氏が修正案を提出する前に、かれに対して自分(ケーディス氏)は異存がないとのアドバイスをした。芦田氏が最高司令官または, 少なくとも民政局長の同意を得るべきではないかとたずねたとき、自分は基本原則に違反しない修正案に対しては反対しなくてもよいという口頭の作業基準があるので、マッカーサーの同意もホィットニ−の同意も必要ないと返事をした、と記述している。  佐々木教授は、この芦田・ケーディス会談の存在そのものを否定している*114。たしかにこの会談の存在を示す客観的な資料は存在しないが、芦田の近くにいた佐藤達夫も両者の会談の存在を前提としていること*115、修正案についてのやり取りに真実味があること、もしケーディスの会談相手が佐藤達夫や入江俊郎であるとすれば、その内容がいずれかの手記に残っていなければならないこと、ケーディス自身にあえてフィクションを作り出す必要性がないこと、などを考慮すれば、芦田・ケーディス会談の存在を否定しなければならない積極的な理由も存在しないのではないかと思われる*116。  ここで、芦田修正の真意と意義について、私の立場を明らかにしておけば、芦田の真意に関しては、藪の中であり、詮索しようがないということである。意義に関しては、芦田の真意がどうであれ、芦田解釈(「自衛のためであれば、戦力の保持は可能)の可能性を残したという点で、非常に大きなものがあるというものである。事実、極東委員会では、この芦田解釈に立脚して、きわめて重大なリアクションを起こすことになる(このことについては、後述)。  さて、芦田修正案は、他の条文とともに、8月24日の衆議院本会議で最終審議に付された。芦田委員長の報告に対して、当初、社会党は反対を表明し、独自の修正案を提出した。同修正案は、1条に「国権は、国民から発する」の規定を新設する、天皇の条項を若干変更するなど数か条におよぶもので、9条案そのものにはふれていない。この修正案が賛成少数で否決されると、社会党は、憲法草案の賛成にまわった。  これに対して、共産党は、委員会での修正案および政府案に対して、絶対反対の姿勢をくずさなかった。委員会で採択された9条案になぜ反対しなければならないか。共産党を代表して、野坂参三議員が熱弁をふるった*117。

 当草案ハ戦争一般ノ抛棄ヲ規定シテ居リマス、之ニ対シテ共産党ハ他国トノ戦争ノ抛棄ノミヲ規定スルコトヲ要求シマシタ、更ニ他国間ノ戦争ニ絶対ニ参加シナイコトヲ明記スルコトヲ要求シマシタガ、是等ノ要求ハ否定サレマシタ、此ノ問題ハ我ガ国ト民族ノ将来ニ取ツテ極メテ重要ナ問題デアリマス、殊ニ現在ノ如キ国際的不安定ノ状態ノ下ニ於テ特ニ重要デアル、芦田委員長及ビ其ノ他ノ委員ハ、日本ガ国際平和ノ為ニ積極的ニ寄与スルコトヲ要望サレマシタガ、勿論是ハ宜イコトデアリマス、併シ現在ノ日本ニ取ツテ是ハ一個ノ空文ニ過ギナイ、政治的ニ経済的ニ殆ド無力ニ近イ日本ガ、国際平和ノ為ニ何ガ一体出来ヤウカ、此ノヤウナ日本ヲ世界ノ何処ノ国ガ相手ニスルデアラウカ、我々ハ此ノヤウナ平和主義ノ空文ヲ弄スル代リニ、今日ノ日本ニ取ツテ相応シイ、又実質的ナ態度ヲ執ルベキデアルト考エルノデアリマス、ソレハドウ云フコトカト言ヘバ、如何ナル国際紛争ニモ日本ハ絶対ニ参加シナイト云フ立場ヲ堅持スルコトデアル、・・・要スルニ当憲法第二章ハ、我ガ国ノ自衛権ヲ抛棄シテ民族ノ独立ヲ危クスル危険ガアル、ソレ故ニ我ガ党ハ民族独立ノ為ニ此ノ憲法ニ反対シナケレバナラナイ。

 共産党は、9条が戦争一般を放棄しているのを平和主義の空文をもてあそび、民族の独立を危険にするものであるから、反対しなければならないと断じたのである。同党は、前述したような独自の憲法草案を有しており、そのような基点から、強く反対を唱えたわけである。これが共産党の原点である。現在、衆参両院に設置されている憲法調査会では、同党は、9条に先駆性があると述べ、同条の改正には絶対反対を唱えている。いったいこの懸隔をどう考えるべきか、国民に対して明確に説明する義務を負っている。  結局、帝国憲法改正案は、8月24日、8人(6人の共産党議員全員と2人の無所属議員)の反対はあったものの、421人の圧倒的多数の賛成により、衆議院を通過し、貴族院に送られた。  貴族院では、まず同月26日より30日まで本会議で、また同月31日から9月28日まで特別委員会において、審議された。このなかで、南原繁、高柳賢三および佐々木惣一の各議員の質疑に若干の焦点をあててみたい。なぜならば、これらの議員はいずれも学者議員であって、その識見はそれぞれの分野で高く評価され、また戦後も影響力を与えたからである。  まず高柳が8月26日の貴族院本会議において、質疑のトップバッターに立った。高柳賢三(1887ー1967年)は、すでに東京帝国大学教授として英米法研究の第一人者の地位にあった。質疑は、それゆえ、該博な比較法の知識を駆使し、たとえば「国会は国権の最高機関」という条文はイギリスの国会主権の建前によって書かれているようであるが、裁判所に違憲審査権を与えているのは明らかにアメリカの思想に依拠している。このような方式は矛盾ではないのかとか、わが国における従来の法的思考は抽象的・演繹的な大陸法が主流で、具体的・帰納的なアングロ・サクソン的思想に欠けていたなど、的確に現行憲法のもつ問題点を指摘している*118。  憲法9条案については、「世界連邦ノ形ニ於ケル世界国家ガ成立スレバ、各国ハ改正案第九条ノ想定シテ居ル武装ナキ国家トナルノデアリマス、世界ニ生起スル総テノ国際紛争ハ武力ヲ背景トセズ、理性ニ依ツテ解決サレルコトニナル、武力ハ世界警察力トシテ、人類理性ノ僕トシテノミ存在ガ許サレル、改正案第九条ハ斯カル世界連邦ヲ前提トシテノミ合理的デアリマス」と述べている。  高柳は、のちに内閣の憲法調査会会長に就任、9条については、政治的マニフェスト説を主張したことで、よく知られている*119。憲法9条が理想主義的なことを規定しているのならば、理想的な世界連邦が設立されたときにのみ、意味をもつという、合理主義的な英米法学者ならではの視点が示されている。  南原繁は、翌日の貴族院本会議で、次のように質疑した*120。

 戦争アツテハナラヌ、是ハ誠ニ普遍的ナル政治道徳ノ原理デアリマスケレドモ、遺憾ナガラ人類種族ガ絶エナイ限リ戦争ガアルト云フノハ歴史ノ現実デアリマス、従ツテ私共ハ此ノ歴史ノ現実ヲ直視シテ、少クトモ国家トシテノ自衛権ト、ソレニ必要ナル最小限度ノ兵備ヲ考ヘルト云フコトハ、是ハ当然ノコトデゴザイマス、・・・茲ニ御尋ネ致シタイノハ、将来日本ガ此ノ国際連合ニ加入ヲ許サレル場合ニ、果シテ斯カル権利ト義務ヲモ拠棄サレルト云フ御意思デアルノカ、斯クノ如ク致シマシテハ、日本ハ永久ニ唯他国ノ好意ト信義ニ委ネテ生キ延ビムトスル所ノ東洋的ナ諦メ、諦念主義ニ陥ル危険ハナイノカ、寧ロ進ンデ人類ノ自由ト正義ヲ擁護スルガ為ニ、互ニ血ト汗ノ犠牲ヲ払フコトニ依ツテ、相共ニ携ヘテ世界恒久平和ヲ確立スルト云フ積極的理想ハ却テ其ノ意義ヲ失ハレルノデハナイカト云フコトヲ憂フルノデアリマス、ソレノミナラズ現在ノ国際政治秩序ノ下ニ於テハ、『アメリカ』国ノ或評論家ガ批評致シマシタヤウニ、筍クモ国家タル以上ハ、自分ノ国民ヲ防衛スルト云フノハ、又其ノ為ノ設備ヲ持ツト云フコトハ、是ハ普遍的ナ原理デアル、之ヲ憲法ニ於テ拠棄シテ無抵抗主義ヲ採用スル何等ノ道徳的義務ハナイノデアリマス、又何レノ国家ニ於キマシテモ、国内ノ秩序ヲ維持スルガ為ニハ、警察力ダケデハ不十分デアリマス、本来兵力ヲ維持スル一ツノ目的ハ、斯カル国内ノ治安ノ維持ト云フコトモ考ヘラレテ居ルノデアリマス、殊ニ日本ノ場合ニハ、将来ヲ想像致シマスルト、国内ニ於キマスル状勢ノ不安、其ノ状態ハ相当覚悟シテ居ラナケレバナラヌト思フノデアリマス、政府ハ近ク来タラムトスル講和会議ニ於テ、是等内外ヨリノ秩序ノ破壊ニ対スル最小限度ノ防衛ヲモ拠棄サレルト云フコトヲ為サラウトスルノデアルカ、此ノ点ヲ御尋ネ申上ゲタイノデアリマス、若シソレナラバ既ニ国家トシテノ自由ト独立ヲ自ラ抛棄シタモノト選ブ所ハナイノデアリマス、国際連合ハ決シテ国家ノ斯カル自主独立性ヲ否定シテ居リマセヌ、寧ロソレヲ完全ナモノニスル為ニ、互ニ連合シテ、世界ニ普遍的ナ政治秩序ヲ作ラウト云フノガ其ノ理想デアリマス。

 南原繁(1889−1973年)は、このとき東大総長の地位にあり、内村鑑三に私淑し、政治道徳に力点をおいた政治学者として令名が高かった。戦後にあっては、その言動は、いわゆる進歩的文化人の一人として、言論界の注目を集めた。後年、政府の片面講和に対して、永世中立・全面講和を主張し、吉田首相から「曲学阿世の徒」と呼ばれたことは歴史的にも有名である。護憲を標榜する「憲法問題研究会」に属し、護憲論を展開したことでも知られる。  その南原をして、「少クトモ国家トシテノ自衛権ト、ソレニ必要ナル最小限度ノ兵備ヲ考ヘルト云フコトハ、是ハ当然ノコト」、「筍クモ国家タル以上ハ、自分ノ国民ヲ防衛スルト云フノハ、又其ノ為ノ設備ヲ持ツト云フコトハ、是ハ普遍的ナ原理デアル、之ヲ憲法ニ於テ拠棄シテ無抵抗主義ヲ採用スル何等ノ道徳的義務ハナイ」、「内外ヨリノ秩序ノ破壊ニ対スル最小限度ノ防衛ヲモ拠棄サレルト云フコト(ハ)、既ニ国家トシテノ自由ト独立ヲ自ラ抛棄シタモノト選ブ所ハナイ」などとと述べさせている点は、大いに注目されてよいであろう。  また佐々木は、28日から29日にかけて長時間の質疑をおこなった。それは実に7時間におよぶものであり、またこれに対する金森国務大臣の答弁も約2時間という国会史上、まさに記録的であった*121。  その質疑は多方面におよんでいるが、9条案に関しては、次のように発言している*122。

 ソコデ私ノ考ヘマスルニ、世界ハ今申シマシタヤウニ、平和的ニ正義ヲ実現スルノデアルガ、併シ此ノ平和的ニ正義ヲ実現スルト云フコトハ日本ダケノコトヂヤナイ、日本ダケノ責任ヂヤナイノダ、是ハ皆ノ国ガ相寄ツテ其ノコトニ寄与スルト云フノデナクチャナラヌ、ソレデアリマスルカラ、我々ハ如何ニ平和的ニ正義ヲ実現スルト申シマシテモ、此ノ世界ノ現実ト云フモノヲ見ナケレバナラナヌ、此ノ世界ノ歴史的現実ト云フモノヲ離レテ観念的ニ問題ヲ考ヘルコトハ、此処ニ非常ナ危険ガアルノミナラズ、是ハ本当ノ意味ニ於イテノ即チ共生体ノ認識ニ適ハナイト私ハ思フノデアリマス、・・・今後国際連合ニ入ルトカ、其ノ他ノ時ニ当リマシテ、嘗テノ不戦条約ト同ジヤウニ戦争ハヤラナイト云フコトヲ皆デ決メルト云フ関係ニ入ルト云フコトハ宜イガ、自分ノ力デ以テソレヲ棄テテシマフト云フコトヲ何故宣言スル必要ガアルカ。

 佐々木惣一(1878ー1965年)は、京都帝国大学の憲法学・行政法学の教授として、その厳密な文理解釈にもとづく学説は、高く評価されていた。前年の11月23日には、内大臣府御用掛として、みずからの改正案を天皇に提出している。また、「自衛のためであれば戦力の保持は合憲である」とする自衛隊合憲論を打ち出した研究者として著名である*123。  いずれにせよ、当時それぞれの学界を代表する3人の学者議員は、いずれも憲法9条案にかなりの危険性を感じていたのである。

第6段階 文民条項の導入

 特別委員会の審議も大詰めを迎えた9月24日、突如、ホイットニー民政局長とケーディス民政局次長が、マッカーサー連合国最高司令官の手紙をたずさえて、吉田首相のもとへやってきた。憲法草案にあらたに二カ所の修正を申しいれてきたのである。その二か所というのは、15条と66条に以下の修正を加えることである。  15条 Universal suffrage is hereby guaranteed with regard to the election of public officials.



66条 The Prime MInister and all other Ministers of State shall be civilians.



吉田首相は、入江法制局長官を呼び、これらの修正を分析させた。その結果、前者は特別に問題はないが、後者については8月19日、総司令部からの同様の申し入れを断り、総司令部も了承していただけに非常に困惑した。  ここで、いわゆる文民条項(「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」)がどのように問題になっていたのか、そのいきさつを概観しておこう。  文民条項の導入が最初に日本側に示されたのは、1945年10月8日の近衛・アチソン会談のときである。この4日前、東久邇宮内閣に副総理格で入閣していた近衛文麿が、連合国最高司令官マッカーサー元帥より帝国憲法改正の示唆を受けた。ぞこで近衛は、総司令部の意向を知るために総司令部の政治顧問ジョージ・アチソンを訪問。同顧問より、憲法のなかに盛りこむべき項目の一つとして、文民条項が提示された。近衛・アチソン会談のもようを記したアメリカ側の資料には、次のような記述がある*124。

 憲法は、陸軍大臣および海軍大臣(もし将来、このような官職が設置されるとすれば)を規制し、かつ統制して、政府に責任を負わせるための規定を欠いている。民主的に考えられる憲法は、軍国主義者から、政府を掌握し、憲法上の手段によって獲得していない権力、すなわち天皇への直接上奏権や職務につくことを拒絶することにより組閣を阻止する権力を剥奪するであろう。そのような憲法はまた、それらの大臣が陸軍将官または海軍将官よりも、むしろ文民(civilian)であることを要求するであろう。

 このアチソンの近衛に対する指摘は、あくまで非公式のものであった。しかしながら、翌46年1月7日に国務・陸軍・海軍三省調整委員会(The State-War-Navy-Coordinating Committee、略してSWNCC)で承認され、同月11日に合衆国太平洋陸軍最高司令官に「情報」(information)として送付されたSWNCC−228文書『日本の統治体制の変革』(Reform of the Japanese Governmental System)には、「国務大臣または内閣閣僚は、すべての場合に文民でなければならない」(The Ministers of State or the members of a Cabinet should in all cases be civilians.) との文言を憲法のなかに入れるよう、日本国政府に注意を喚起することが記述されていた。  けれども、実際に総司令部案としてまとめられ、2月13日に日本国側に示された『日本国憲法』には、当該条項は、まったく入れられていない。したがって、6月20日、第90帝国議会に提案された『帝国憲法改正草案』には、当然のこととして、見あたらない。  文民条項が再び要求されるのは、極東委員会の政策決定『新しい日本国憲法のための基本原則』(FEC−031/19)においてである*125。同決定では、「内閣総理大臣および国務大臣は、立法府に対して連帯して責任を負う内閣を組織し、そのすべてが文民でなければならず、・・・」と記されていた。極東委員会の政策決定であるかぎり、アメリカ政府が多大の注目を払わなければならないのは、当然である。さっそくこの決定は、アメリカ政府を通じ、総司令部へ届けられた。ワシントン(統合参謀本部)から太平洋陸軍最高司令官(マッカーサー元帥)宛てに送られた7月7日づけの文書によれば*126、「連合軍最高司令官は、日本人によって採択される憲法がいかなるものであれ、この声明(西注・7月2日の『基本原則』を指す)に定められている原則に合致することを確保するために、適当な処置をとらなければならない。」と記されている。  そこで総可令部では、極東委員会の『基本原則』を詳細に分析し、審議中の日本国憲法案と比較した結果、8月19日、マッカーサー元帥より吉田首相に対し、極東委員会からの要望であるとして、@内閣総理大臣は国会議員のなかから国会の議決でこれを指名し、国務大臣の過半数は国会議員のなかから選ぶこととし、かつAいずれもシビリアンであることを要するというふうに、改正案を修正するようにとの希望が表明された。  日本国側は、この申し入れを検討し、@は受けいれることができるが、Aは9条の関係から無意味であると考えた。このときの状況を、外務省公開文書は、次のごとく記している。*127

 右提案に対しては、前記@の点については異存はないが、いわゆるCivilianでなければならないとすることは、日本は既に第9条により戦争を全面的に抛棄して居り、かくの如き規定を恒久的なるべき憲法の条章中に設けることは不適当である、と云うことで、白洲次長からウィトニー代将にその旨申入れたところ、この点はマ元帥の責任において原提案より削除することになった。

 こうして、日本国政府は、この問題に関しては、一件落着と思ったが、意外な展開をみることになった。1か月余を経た9月24日、先述したごとく、ホイットニー民政局長とケーディス民政局次長が吉田首相を訪れ、再び同条項の導入を持ちだしたのである。しかも今度は、「総司令部は極東委員会からの要求をただ取り次ぐだけ」という、有無をいわさぬ態度に変っていた。いったい、8月19日から9月24日までの間に何が起ったのか。総司令部は、なぜ一度撤回したものをかくも強い調子で持ちだしてきたのか。  従来の憲法書には、この点にスポットを当てて、一次資料を提示して論述したものは、皆無である*128。けれども、極東委員会における審議を検討すれば、その理由が手に取るように明白になる。そしてそれは、ただ単に文民条項の導入過程が明らかになるだけでなく、学界で通説とされている「文民」の解釈、ひいては9条の解釈そのものにも基本的な影響をおよぼす意義をもっているものと思われる。  私は、別に「文民」にかかわる極東委員会での審議状況を詳述したが*129、ごく簡単に再論すると、次のようになる*130。  9月19日 ソ連より、『憲法草案に関するソビエトの提案』(FEC−087/5)が提出された。そこにおいては、国民主権の明確化、最高裁判所裁判官の選任方法などとともに、文民条項の導入が記載されていた。  9月20日 第3委員会でソ連の提案を審議、『憲法草案に関するソビエトの提案(FEC−087/5)に対する憲法および法律改革委員会の声明』(FEC−087/6)が発せられた。同声明において、芦田修正により、自衛の目的であれば、軍隊の保持が可能になった。そうすれば、かつてのように、国務大臣に軍人を据える恐れが生じる。そのような疑念を払拭するためにも、極東委員会として、文民条項を憲法に導入することを主張すべきである、との提案がなされた。  9月21日 極東委員会第27回会議で非常に熱心な討議がなされた。中国のタン博士は、「(芦田修正によって)常識は、自衛のためであれば、軍隊の保持は認められると解釈されることになる。」と述べ、カナダ代表のパターソンは、「衆議院で芦田修正が可決されたことにより、公的に承認された陸軍大将、海軍大将その他の将官が存在することは、まったく考えられうることであり、すべての閣僚がシビリアンでなければならないという規定があれば、将軍が閣僚に任命される可能性の問題は起こりえない。」と論じた。イギリス代表のサンソムからは、「(9条の修正は)さまざまの解釈を可能にする非常に悪い起草の典型である。」と酷評された。  このような討論の結果が極東委員会よりアメリカ政府に伝えられ、9月22日、ピーターセン陸軍次官補から、マッカーサー元帥宛て、至急電が発せられた。そこには、概要、次のような記述がある*131。

 合衆国としては、シビリアン大臣制の導入に関し、極東委員会で賛成の行動をとることを阻止することができたであろうけれども、本日の討議から、極東委員会の委員が後日、問題を再び持ちだし、従前の極東委員会の政策決定に従うよう主張することは明白なように思われた。何人かの委員は9条の解明で満足しているようにみえるが、他の委員は大臣がシビリアンでなければならないとする特別の規定を設けるべしと主張するであろう。なお合衆国は、今回、一応シビリアン大臣制の導入について消極的な姿勢を示したが、いつまでもこのような姿勢をとり続けるかどうかはわからない。・・・  おそらく貴官も承知のように、極東委員会は、2、3カ月前、憲法が施行されてから後の1年以上2年以内に、憲法を再審査するという意思を述べた文書を提出した。したがって、たとえ目下、極東委員会の正式な反対がなくても、憲法が施行されれば、極東委員会の委員は、引き続く再審査の期間中にシビリアン大臣制の件を持ちだすことは疑いのないことであろう。もし貴官がこの修正(注・文民条項を憲法の中に入れること)の実現を可能にするのにそれほど困難を伴わないとすれば、そうすることを真剣に考慮すべきものと本官は信ずる。いずれにせよ、貴官のできる限り早い見解を示されたい。

 上記のメッセージのなかで、とくに重要と思われるのは、極東委員会が日本国憲法施行後1年以上2年以内に再審査するという文書が提出されていることにふれている部分である。この段階では、たんに文書の提出にすぎなかったが、果たせるかな、10月17日、『新しい日本国憲法の再審査のための規定』(FEC−031/40)が政策決定された。  もし、ここで文民条項を憲法のなかに入れるように日本側に働きかけなければ、後日、極東委員会からその導入を主張されるのは、必至である。そのような事態になれば、マッカーサー元帥らが最高の作品としてきた日本国憲法に傷がつくだけでなく、極東委員会の干渉を白日のもとにさらすことになる。やはり、この時点で日本国政府に勧告するのがベストな選択である。アメリカ政府もマッカーサー元帥も、このような思考をめぐらしたものと推測される。かくして、9月24日、マッカーサー連合国最高司令官がホイットニー局長とケーディス次長を吉田首相のもとにつかわした理由が解明されよう。  マッカーサー元帥は、日本国政府に対し、極東委員会の要請を伝えるや、早速、同委員会に向けてその旨を打電している*132。まことにす早い反応だったといえよう。  日本国政府としては、8月19日に一件落着したと思っていた案件が再燃したことに困惑したが、当該方針に従わざるを得なかった。そこで、いかにして憲法のなかに同条項を取りこむかが日本国政府の思案すべきところとなった。日本国政府は、極東委員会での審議内容を知るよしもなく、ただ“The Prime MInister and all other Ministers of State shall be civilians.”なる条文をつけ加えるように求められただけであるから、civiliansの訳語に腐心した。そこで、この当時、強力に実施されていた公職追放の考え方の一種の延長であろうと推測して、職業軍人の経歴を有する者を排除する意味で66条1項の次に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、武官の経歴を有しない者でなければならない。」(The Prime Minister and other Ministers of State shall be persons without professional military or naval antecedents.)を加える案を準備した*133。  一方、貴族院の特別委員会では、9月26日、織田信恒議員によって質疑がおこなわれた。この織田議員と政府の仲介役をとったのが吉田首相の〈側近〉*134白州次郎であった。白州次郎(1902−1985年)は。終戦連絡事務局次長、同参与として、日本国憲法の成立過程にも積極的に関与し、6年2月15日のいわゆる『ジープレター』や3月7日に書きとめた『白州日記』などを通じて。その活動ぶりがうかがえる*135。白州は、総司令部からの要求を受けた吉田首相の心配を慮り、貴族院議員の梅渓通虎子爵を介して、おなじく子爵の織田議員に連絡をとったという*136。織田信恒(1884−1967年)は、織田信長の子孫で。文部大臣も務めたベテラン議員であった。  織田議員は、次のような質疑を敢行した*137。

 私ハ総論ノ時カラ御質問シテ居ルヤウニ、私一人ノ観方カモ知レマセヌガ、新憲法ノ一番ノ山ハ国際平和、第二章戦争放棄、此ノ平和ノ山ニ登ル為ニ我々ハ一ツノ『デモクラシー』体制ヲ採ツテ国際間ニ伍シテ行カウト云フ、非常ニ国際的ナ性格ヲ之ニ持ツテ居リマス、此ノ平和ノ条章、之ニ相反スルヤウナコトハ絶対ニ避ケナケレバナラヌ、ソコデ起ツテ来ルノハ、総理大臣トカ国務大臣、政治ノ最高級ニ立ツテ政治ヲスル人ガ、平和ト相反スルヤウナ人ガ立ツタナラバ、是ハ国民トシテ許サレナイデセウシ、国際的ニモ許サレナイコトダト思ヒマス、ソレデ是ハ少シ取越シ苦労ニナルカモ知レヌケレドモ、国際的ニハ日本ガ又元ノヤウナ形ニナリハセヌカト云フ心配、疑念ハ誰シモ持ツダラウト思ヒマス、無論今度ハ日本ハ武装ヲ解除シテ居リマスカラ、総テハ『シヴィル』デアリマスケレドモ、将来矢張リ総理大臣トカ国務大臣ト云フモノハ昔ミタイニ軍人ガナルト云フコトヲ避ケテ、『シヴィリアン』ニ依ツテ其ノ地位ガ占メラレテ行クト云フコトガ、矢張リ第2章ヲ中心トシテ考ヘテモ将来確保シタイ一ツノ行キ方ダラウト思ヒマス、(拍手)此ノ点一ツ御意見ヲ伺ヒタイト思ヒマス。

 これに対する金森大臣の答弁は、次のようである。

 国務大臣、総理大臣ニ軍人ガナルト云フコトハドウカ、斯ウ云フ御質疑デアツタノデアリマス、御説ノ通リ此ノ憲法ハ、第二章ニ於キマシテ戦争ノ放棄ト云フ規定ヲ設ケマシテ、将来日本ハ国際関係ニ於キマシテ最モ平和的ナ態度ヲ執ルト云フコトヲ闡明シテ居リマス、又統帥ニ関スル規定トカ、其ノ外之ニ関連スル一切ノ規定ヲ省キマシテ、国内ノ必要ヲ満タシテ居ルコトハ勿論、国際関係ニ於ケル疑惑ヲ解クコトニ十分努メ、其ノ趣旨ハ前文ニモ明カニシテ居ル次第デアリマス、ソコデ今迄過去ニ於キマシテ職業的ナト申シマスカ、本来ソレヲ望ンデ軍人トナツテ、軍人トシテ大イニ世ノ中ニ努力セラレタト云フコトハ、其ノ当時々々ノ立場トシテハ極メテ正当デアツタ場合ガ多カラウト存ジマスルケレドモ、此ノ憲法ノ建前ヲ執リマスル限リ、左様ナ職業軍人ノ方々ガ若干ノ世ノ疑惑ノ空気ヲ持ツテ居ラルル、単リ日本人ガ疑惑ノ空気ヲ持ツト云フ訳デハナク、何トナク世間ノ目デ疑惑ノ目ヲ持ツテ居ラレルト云フコトデハナイデアロウカト云フ懸念ガ起ツテ来ル訳デアリマス、戦ヲ好ム立場デアルカ、平和的デアルカト云フコトハ、其ノ人其ノ人ノ個性ニ依ツテ決ルノデアリマシテ、過去ニ於テ軍人デアツタカラドウト云フコトハ、純粋ナル理論ト致シマシテハ筋違ヒノモノト思ハレマスケレドモ、事自身ガ非常ニ重大ナルコトデアリ、何トシテモ矢張リ過去ノ経歴ガ其ノ人ノ精神ニ対シテ影響ヲ持チ得ル可能性ハ多イノデアリマスルガ、其ノ点ニ付テ若干ノ考慮ヲ用フベキ余地ガアリ得ルト考ヘテ居ルノデアリマス。 

 こうして、政府は、貴族院との間で内閣総理大臣その他の国務大臣をシビリアンとする条項を加えることの合意を得て、9月27日、15条(普通選挙制)と66条(文民条項)の修正案を総司令部へ携行した。文民条項についてのみいえば、次のような記録が残されている*138。

 第六十六条の修正案(The Prime MInister and all Ministers of State shall be civilians)については、第一項の次に  内閣総理大臣その他の国務大臣は、武官の経歴を有しない者でなければならない。(The Prime MInister and other Ministers of State shall be persons without professional careers as military or naval officers)との一項を追加することとし、右対案をもつて、本27日法制局佐藤次長及藤崎事務官はケイディス大佐(リゾー少佐同席)を往訪した。・・・  二、第66条の当方対案については、先方から『civiliansと言ふ言葉に相当する日本語がないならば、軍人でない者と云ふ意味の日本語はないか』と述べた後、ケイディス大佐は『現在はさうだが、将来は又軍人が居る様になるかも知れないと言ふ疑念が、衆議院の修正によつて他の連合国の間に起こった(の)が、今回の申入の機縁であると推測される。即ち同条第一項にFor the above purpose (前項の目的を達する為)とあるのが、日本は右目的で再び軍備を整へることがあり得るとの誤解を生じたものと思はれる。或ひは又、将来日本が国際連合に加入し、国際警察軍に参加の義務を負ふ様な場合を予想したのかも知れない』と述べた。  何れにしても、日本文の方は当方案の通りでよいが、その英訳に適当な文句がないと言ふことになつたので、当方から『civilianと言ふ言葉の意味する所が右の日本文の通りと言ふことならば、英文の方はcivilianの儘にしておいたらどうか』と提案したところ、ケイディス大佐は『それは危険だ』と言つてこれを採らず、結局persons以下をpersons without professional careers as military or naval officersとすることに落着いた( antecedentsと言ふ語は、先祖の意味に誤解され易いと言ふことでこれを避けた)。  三、第9条の衆議院の修正がことの起りであると言ふケーデイス大佐の説明は言懸りに過ぎないと思はれる。若し果して然りとすれば、先方は最初から、第9条自体を問題にして来るであらうし、又第66条の修正を当方対案の様な形で承認する筈はない訳である。然しながら第9条第2項の英文のFor the above purposeと言ふ文句は前述の様な誤解を生ずる恐れがあるからこれをIn order to accomplish the aim of the preceding paragraphと改められた方がよいと思ふと言ふことだつたので、これを了承した。

 ここに、ケーディスは、まがりなりにも9条2項の修正との関係で極東委員会が文民条項をもちだしたのではないかと推測していたのに対し、日本国側は、「言懸りに過ぎないと思はれる」として、まったく歯牙にもかけていない。  また、衆議院の修正、すなわち芦田修正が問題になったとすれば、「先方は最初から、第9条自体を問題にして来るであろう」と考えていたことが示されている。けれども、極東委員会は、前述したように、芦田修正(すなわち自衛のための軍隊を認める)を前提としたうえで、民主的な軍隊とすべく、シビリアン条項の導入を要求してきていたのである。  さらに、政府はシビリアンを過去の経歴のみから解釈しようとしていた。ちょうどこの頃、イギリスのタイム社の社説が当該修正を「(現役の)軍人を内閣から排除しようとするものだ」と解したのと対照的である*139。  さて、論戦は最後の舞台へと移った。貴族院帝国憲法改正案特別委員小委員会である。この小委員会は、橋本実斐伯爵を小委員長とする15人で構成されていた。15人中6人が東京帝国大学、慶應義塾大学、法政大学の現役教授または名誉教授で占められていた。ほかに文部大臣、司法大臣、大審院長経験者など、まさにそうそうたるメンバーであった。この委員会は、非公開でおこなわれ、議事録が残っていない。けれども、1996年1月22日に詳細な『筆記要旨』が公開され、歴史の空白部分が埋められた。同『筆記要旨』によれば、文民条項がおもに問題にされたのは、10月1日の第3回小委員会においてである*140。  この小委員会における議論に、少しばかり耳を傾けてみよう。

 高木八尺君 此ノ問題ヲ扱フニ付テハ、最後ノ段階ニ至ッテ突如トシテ斯ル修正ガ憲法ニ何故入ッタカハ、一般ノ公然ノ秘密トシテ問題ニナラナケレバナラナイモノト思フ。スルト貴族院ガ外部ノ要求ニ依ッテ修正シタルコトニナルト、之ガ自由ニ審議サレタ憲法デアルト云フ事実ヲ傷ツケルコトニナル。ソコデ斯ル不必要ナ規定挿入ノ要求ウィ貴族院トシテハ拒ンデ宜イデハナイカ。  子爵織田信恒 之ヲ拒ムコトニ依ッテ国家ガ大キナ損害ヲ来スヨリモ、此処デ之ヲ呑ンダ方ガ宜クハナイカ。  田所美治君 吾々ノ本意ハ此ノ憲法ヲ初メカラ全部オ断リシタイ所デアルガ、ソレハトテモ出来ルコトデハナイ。  高木八尺君 之ガ国際的ニサウ大キナ問題トナルハズハナイ。又之ヲ拒ムコトニ依ッテサウ国家ニ対シテ大キナ損害ヲ来スコトハナイト思フ。  子爵織田信恒君 スルトモウ一度政府ヲ通ジテ貴族院ニ異論ガアルカラ要求ヲ撤回スル訳ニハ行カヌト云フコトヲ折衝スベキデアル。  田所美治君 サウスルト会期延長トナリ法案成立ヲ遷延セシメル責任ヲ負ハナケレバナラナイカラ、不本意乍ラ呑ンデ成立サセテハ如何。  宮澤俊義君 高木君ノ意見ハ一応尤モダガ、憲法全体ガ自発的ニ出来テ居ルモノデナイ、指令サレテ居ル事実ハヤガテ知レルコトト思フ、重大ナコトヲ失ッタ後デ此処デ頑張ッタ所デサウ得ル所ハナク、多少トモ自主性ヲ以テヤッタト云フ自己欺瞞ニスギナイカラ織田子爵ニ賛成。  松本学君 之程重大ナコトヲ『ホイットニー』『ケーディス』ガ理由モ云ハズニ吉田総理ニ申シ出ル筈ハナイ。又理由モ聴カナイデ之ヲ受ケル筈ハナイカラ総理ニ出席ヲ求メテ説明ヲ聴キタイ。  小委員長(橋本実斐君) 総理ノ出席ヲ求メルコトニスル。

 こうして、吉田首相の出席を求めることになるが、上記審議が全体的に諦観ムードに包まれていたことが理解できる。なかんずく注目されるのは、高木委員が貴族院として、総司令部からの突然の要求を拒否してもいいのではないかという強硬論を展開しているのに対して、宮澤委員がいわば諦観論というべき消極論を展開していることである。二人とも、東京帝国大学教授の地位にあり、高木八尺(1889−1984年)は、日本におけるアメリカ政治史研究の先駆者であって、前年の10月から11月にかけて、近衛文麿のブレーンとして、総司令部側との折衝に尽力した。また宮澤俊義(1899−1976年)は、法学部で憲法を講じ、松本委員会の主要メンバーとして、松本委員会案の作成に関与した。戦後、護憲の立場をとったことでよく知られているが、この会議で、日本国憲法を「非自発的、非自主的、自己欺瞞」と明言していたことは、記憶されるべきである。  さて、この日の午後、吉田首相が出席し、委員と吉田首相、金森大臣との間で質疑応答があった。主要な部分を摘記してみよう。

 国務大臣(吉田茂君) 9月24日「ホイットニー」ト「ケーディス」ガ来テ云ヒニクサウニシテ「憲法審議ガ最後ノ段階ニ入ッテカラ云フノハ御迷惑ダラウガ、9条ノ修正トノ関係カラ、普選ノコトトcivilianノ字ヲ入レテ欲シイ、之ハGHQトシテ必シモ賛成デナイガ、英「ソ」ガFECニ提案シ、ソコカラ来タモノダカラ、「マ」元帥トシテハ御気ノ毒ダガ呑ンデクレナイカト云フコトデアル。故意ニcivilianヲ避ケル意図アリトシテ「ソ」、英カラ誤解サレルコトガアッテモ面白クナイカラ、受容レテ呉レナイカ。」ト云フコトダッタノデソレデハ一応考ヘテ見ヨウト返答シタ*141。  下条康麿君 進駐軍ガ引揚ゲタラ日本ノ制度ガ元ニ戻ッテハ困ルカラ、ト云フ下心ニ出タモノデハナイカ。  国務大臣(吉田茂君) 疑ッテ見レバサウ云フコトデアラウ。  子爵織田信恒君 最高指揮官数名ト云フ程度ナラバ問題ハナイガ、伍長等ヲモ含ム広範ナ規定ヲ設ケテ、嘗テノ職業軍人ダッタ者ガ全然ナレナイトスルコトハ国内ノ政治問題ヲ生ズルコトハナイノカ。  国務大臣(吉田茂君) 先方ハ9条ノ修正ノ関係カラ提起シタカラ、civilianハ思想デ追及スルモノデナク、軍籍ヲ持ッタ者ヲ意味スルノデアル、9条ト如何ナル関係アリヤト質問シタガ答弁出来ナカッタ。  国務大臣(金森徳次郎君) 武官ノ経歴ヲ有シナイ者トシ、之ハ兵役義務ノ履行トシテデナクシテ、陸軍ノ将校又ハ下士官タルコトノナカッタ者ヲ意味スルト説明シタラ、先方ハ諒解シタ。下士官ヲモ含ムノデpurgeノ場合ヨリモ範囲ガ広イ。

 この問答から明らかになることは、まず第一に文民条項が極東委員会から出てきたものであって、マッカーサー元帥としては、「御気ノ毒ダガ呑ンデクレナイカト云フコトデアル」という具合に、かなり強引だったということである。第二に総司令部も、日本国政府も、極東委員会で何が問題になったのか、ほとんど理解していなかったということである。ホイットニ−らは、「9条ノ修正トノ関係カラ」とは理解していたようであるが、吉田首相から、具体的に9条との関係を問われて、「答弁出来ナカッタ。」  また金森大臣は、シビリアンを、過去において職業軍人の経歴を有していない者と解して交渉していることを表明している。しかしながら、このような解釈は問題視され、前述の英米法の権威、高柳委員からシビリアンに相当する言葉を作ることが提案された*142。9月30日と10月1日の小委員会では、各委員から、さまざまの訳語が提起されている。たとえば、「平人」または「凡人」(牧野英一委員)、「文臣」または「文化人」(織田信恒委員)、「文人」(田所美治委員)、「文民」(川村竹治委員)、「民人」(浅野長武委員)、「文官」(飯田精太郎委員)、「平和業務者」(高柳賢三委員)など、多数の言葉が案出され、最終的に「文民」に決まった。  こうして、10月2日、佐藤法制局次長がケーディス民政局次長に電話を入れ、「武官の経歴を有していない者」から、civilianに相当する「文民」という文字を使うことになった旨を伝え、了解を得た*143。  このような小委員会の議を経て、10月3日の特別委員会で、橋本委員長は、次のように報告している*144。

 茲ニ「文民」ト申シマスルコトハ、武臣ニ相対スル言葉デ、之ヲ英語デ言ヘバ「シビリアンズ」トデモ云フ積リノ文字デアリマス、聊カ慣レナイ感ナキニシモアラズデゴザイマスルガ、慣熟シテ参リマスレバ、段々「シビリアンズ」ノ気持ガ滲ミ出テ来ルコトト考ヘル次第デアリマス。

 日本国憲法が施行されてから、すでに60年近くなろうというこんにち、橋本委員長のいうように、段々とシビリアンズの気持がにじみ出てきているであろうか。  それはともかくとして、上記の事実から、極東委員会が何を契機に文民条項の導入を要求してきたのか、政府はまったく知らないまま、同条項の要求に応じたということである。本来、憲法案のあらゆることについて責任を負うべき日本国政府が、文民条項がなぜ導入されなければならなかったのか、まったくあずかり知らないところで論じられ、しかも総司令部さえも意味のわからぬまま、強引に押し込まれたという二重のいびつさが浮き彫りになった。その意味で、文民条項の導入過程は、日本国憲法成立史の象徴的出来事ともいえる。  かくして最終的に66条2項に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」 (The Prime MInister and other Minister of State shall be civilians.)の条項が追加されたのである。  なお、10月1日の小委員会では、前文にもメスが入れられた。平和主義に関する部分を摘記すると、次のようである。(かっこの中が政府提出案で、アンダーラインの部分が修正されたものである)  「日本国民は、恒久の(常に)平和を念願し、人間相互の関係を支配する(高邁)崇高な理想を深く自覚する(も)のであつて、(われらの安全と生存をあげて)平和を愛する諸国民の公正と信義に(委ね)信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した。」 いわゆる他力本願の例としてあげられる「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した。」の部分である。この修正は、そのまま現行の前文となっている。  英文の違いは、次のようである。

 政府案 Desiring peace for all time and fully conscious of the high ideals controlling human relationship now stirring mankind,we have determined to rely for our security and survival upon the justice and good faith of the peace- loving peoples of the world.

修正案(現行) We,the Japanese people,desire peace for all time and are deeplyconscious of the high ideals controlling human relationship,and we have determined to preserve our security and existence,trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.

 このように修正されたことについて、ケーディスは、ますます自衛権の保持が明確になったと感じたと証言している。1988年9月1日、比較憲法研究会(会長・清水望教授)での席上、原案では、「われらの平和と安全」をいわば無条件に「平和を愛する諸国民の公正と信義に委ねようと決意した」とあったが、「平和を愛する諸国民の公正と信義に『信頼』してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」と変更されたことは、前文のこの部分が完全なる他律から自律へと変わったということを意識して、自分は承認を与えたというのである*145。自衛戦力保持の一つの根拠を前文の修正に求めたという点で、新鮮な証言になった*146。   第7段階 最後の詰め

 貴族院小委員会では10月2日に決をとり、多数の賛成で修正案を可決、特別委員会に送付した。特別委員会は翌10月3日に開催、橋本小委員長の報告を受けて、文民条項その他について審議した。  この審議において、松村真一郎委員は、2章で戦争を放棄し、戦力を保持していないとなっている以上、日本の国民はすべて文民であり、かかる規定は不要であること、職業軍人であった者をどう解釈するのか、あいまいであることなどの理由により、同条項の導入に対して反対の意思を表明した。また山田三良委員は、法の下の平等という点から、同条項に疑問を呈した*147。  この日は、前文(「一切の憲法、法令及び詔勅」を「憲法並に一切の法令及び詔勅」に改める)、10条(次の1項を加える「前項に於て国民といふ言葉の意義には天皇を含まない。本章中に於て国民といふ言葉の意義には、何れも天皇を含まない。」)などの修正案が提出されたが、いずれも起立少数で否決され、小委員会の修正案が承認された。  そして貴族院本会議が、10月5日午前10時45分に開会。開会の冒頭、特別委員会の安倍能成委員長より、委員会報告がなされた。文民条項に関する部分は、次のようである*148。    第六十六条、「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。」此の第一項ト第二項トノ間ニ「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」斯ウ云フ修正ガ下サレタノデアリマス、是ハ第二章、第九条ノ戦争拠棄ノ規定ト相照応シテ世界平和ヲ末永ク続カセテ行クト云フ、サウ云フ考慮カラ修正サレタモノデアリマス、文民ト云フ言葉ガ多少不熟ナ感ガアリマスガ、此ノ文民ニ代ルモノトシテハ或ハ文人、文治人、文臣、平人、民人ト云フヤウナ、サウ云フ風ナ案モ提出サレタノデアリマスガ、其ノ中デ比較的一番良イト思ハレル文人ト云フノハ官吏ニ限ラレルト云フ、サウ云フ風ナ虞ガアルノデ、文民ト云フ所ニ落著イタノデアリマス、文民ハ武臣ニ対スル所ノ言葉デアリマス、・・・此ノ憲法改正ト云フコトガ、現行憲法ト云フモノヲ自ラ毀ツタ、我ガ国民ノ過去ニ於ケル所ノ行跡カラ考ヘテ免ルベカラザル所ノ必然的ナモノデアルト云フコトハ、是ハ言フ迄モナイコトデアリマシテ、其ノ点ニ付テハ一般ノ民衆ハ兎モ角トシテ、政府者モ議員モ学者モ、ソレカラシテ官吏モ、皆悉ク其ノ責任ヲ免レルコトハ出来ナイモノデアツテ、今後ノ新シイ憲法ト云フモノヲ実現スル所ノ責任ハ、サウ云フ風ナ過誤ヲ犯シタ所ノ日本国民全体ガ之ヲ負フベキモノデアルト考ヘルノデアリマス、私ハ此ノ憲法ヲ審議スルニ当ツテ、実ニ感慨無量ナモノガアリマシテ、此新憲法ニ対シテ必ズシモ欣ビヲ感ズルコトハ出来ナイノデアリマスガ、併シ唯之ヲ履マヘテ之ノ憲法ノ良キ精神ヲ発揮シテ、サウシテ日本ノ将来ニ於ケル所ノ欣ビト幸トヲ拓イテ行キタイト考ヘルノデアリマス(拍手起ル)。

 この安倍委員長の報告には、みずからの複雑な心境が吐露されているように思われる。すなわち、自分自身としては、この憲法を欣んで受けいれる気持ちにはなれないが、日本国が犯した過去のあやまちは深く反省し、この憲法を甘受し、そのよき精神を発揮することが将来に課せられた使命であろうという心情が切々と伝わってくるようだ。安部能成(1882−1966年)は、夏目漱石門下で、京城帝国大学教授、第一高等学校長、文部大臣を歴任し、学習院院長を20年にわたりつとめた教育者、哲学者であった。  この委員長報告に関連し、同日、若干の質疑応答があり、さらに6日、日曜日であるにもかかわらず、審議が続けられた。第二読会では、二つの修正案(天皇の国事行為に関する条項の若干の修正、24条1項に「家族生活はこれを尊重する」を加える)が提出されたが、いずれも否決され、最後に徳川家正議長より帝国憲法改正案についての可否が問われ、圧倒的多数で可決された。  このように、貴族院でいくつかの修正があったため、衆議院に回付、同院本会議で討論ぬきでただちに採決に入り、共産党議員5人を除く、全員に近い多数で可決された。かくして帝国議会における全審議はすべて終了したのである。  ただし、ここで完全に成立したわけでなく、最後の手続として、枢密院への諮詞がなされた。枢密院では、10月19、21の両日、審査委員会が開かれた。金森大臣は、これまでのいきさつを説明したが、金森大臣は、66条2項については、シビリアンの語に言及している*149。

 シヴィリアンとは何かという問題であるが、日本語に適切に写し出すことは困難であり、うっかりすると飛んでもないことになるので慎重に研究した。一時、武官の経歴を有しない者ということも考えた。それは兵役の義務に基くものを除く意味であったが、貴族院では、この関係で『武』極力排除しているのに、武官の語を使うのは感覚上おもしろくない、また、武官に重きをおくのではなく、非軍人に重きをおくべきであるということで、これを直截に表す工夫がなされた。それについて平人、常人などの案もあったが、シヴィリアンをシヴィル・ピープルと翻案して『文民』の語を新たに作った。その意味は、現在においては『武官の経歴を有しない人』と解しているが、将来、時代の変化とともに進化の可能性がある上おいてこれは適当であると考えた。

 ここに政府として、「慎重に研究した」結果、「武官の経歴を有しない人」と解するにいたったことを言明しているが、どのような研究をしたのであろうか。研究の結果、シビリアンを「武官の経歴を有しない人」と解するにいたったとすれば、明らかに間違った研究結果といわざるを得ない。なぜならば、シビリアンは「現在、軍人でない者」と解すべきで、これが世界に通用する、ごく常識的な解釈だからである。  10月21日の第2回審査委員会では、9条に関し、次のような問答がなされた*150。

 林頼三郎顧問官 9条1項によれば、国際間の紛争の場合のみを規律しているから、小規模の内乱紛争、つまり国内紛争の場合はそれにふさわしい武力の行使は別段、禁止しないものと解されるか。  金森国務大臣 9条1項は国と国との間の問題に関するものであり、国内の場合については争乱の鎮圧手段および自衛行為を禁止していない。しかし2項によって事実上、戦力の保持ができないから、結局、武力の行使はできないものとする。この点については、(衆議院で修正があっても)政府の見解は、原案の場合とまったく同一である。また、2項の「前項の目的を達するため」とあるのは、1項の「国際平和を希求する」という大目的の意味であり、「戦力」とは戦争に主として用いられるものの意味であるから、国内治安維持のための武器の保有は許されるものと解している。  遠藤源六顧問 いまの説明は意外である。「前項の目的を達するため」という文言が入ったのであるから、国内治安のためには軍がもてるということになる、と自分は解釈したい。政府としてもできないなぞといったもらいたくない。今日、はっきり軍隊をもてるといえないかもしれないが、講和条約のときに持ち出したらどうか。その方が国連加盟の上からもよい。  金森国務大臣 それは保障できない。憲法修正のプロセスにおける総司令部の説明では、 「前項の目的を達するため」は、レトリックであるということであった。私としては、できるとかできないとかいうのではなくて、静かに将来を待つという態度でゆくのがいいのではないかと思っている。  林毅陸顧問 9条の1項と2項とは釣り合いがとれていないように思う。1項は、英文はよいが日本文は悪い。1項は不戦条約と同趣旨であり、したがって、国内治安のための武力保持は当然に認められる。

 上記の金森答弁のうち、林(頼)および遠藤顧問官から、いわゆる芦田修正によって、9条の意味は変わったのではないかとの問いに対して、まったく変わらないと断定していること、その実、芦田修正中の「前項の目的を達するため」を1項冒頭の「国際平和を希求する」を受けることとし、一段と縮小解釈をしている点が注目されよう。また、国内治安に際しても、「武力の行使」を禁じていると解釈しているが、既述したように、1954年に施行された自衛隊法88条では、「(防衛出動)を命ぜられた自衛隊は、わが国を防衛するため、必要な武力を行使することができる。」と明定されていることが想起される。  ちなみに、林頼三郎(1878−1958年)は、司法官僚出身で、検事総長、大審院院長、司法大臣などを、遠藤源六(1872−1971年)は、国際法学者で、行政裁判所長官などを、そして林毅陸(1872−1950年)は、欧州外交史の研究家で、衆議院議員4期を務め、慶應義塾塾長などを歴任している。  こうして、いわば通過儀礼が終了し、10月29日、枢密院本会議が開催、潮恵之輔審査委員長の説明後、清水澄議長の「全会一致で可決された。本日はこれで閉会する。」の声により、すべての審議が終了した。そして天皇の裁可を得て、11月3日に公布、ここに新しい憲法ができあがり、あとは半年後の施行をまつだけとなった。  なお公布の直前、英文の方にコンマをいくつか削るなど、ほんのわずかの調整がなされ、これが現在の英訳文となっている。

 Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order,the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomolish the aim of the preceding paragraph,land,sea,and air forces,as well as other war potential,will never be maintained.The right of belligerency of the state will not be recognized.

おわりに−戦争放棄条項と文民条項との正しい解釈のために

 以上、かなり詳細に戦争放棄条項およびそれと密接に関連する文民条項の成立経緯をみてきた。  ここですくなくとも、以下のことが明確になった。  (1) 9条を誰が発案したかについては、「ミステリアス」の面があるが、マッカーサーが上院で発言してから有力になった幣原発案説の根拠は、はなはだ乏しいこと。  (2) マッカーサー・ノートにおける戦争放棄条項が総司令部案として条文化されるにあたり、当初どこにおかれていたかということについて、ハッシー中佐によって前文に入れられていたという説もあるが、前文にではなく、1条におかれ、その後、8条に設定されたとみるのが正しいのではないかということ。  (3) マッカーサー・ノートにおいては、「自己の安全を保障するための手段としてさえも」戦争が放棄されるように条文化するむね指示されていたが、総司令部案として作成されるに際して、その部分がケーディス大佐によって削除された。ケーディス大佐の証言によれば、その削除に十分な意味(「非現実的から現実的へ」)がこめられていたということである。その結果、この時点で、全面的な戦争放棄から、限定的な戦争放棄になった。  (4) いわゆる芦田修正の意味について、芦田自身がいかに考えていたのか、その真意はいまでも明確でない部分があるが、当該修正によって、自衛のためならば、陸海空軍その他の戦力は保持し得るという解釈が可能になった。  (5) 事実、極東委員会ではそのように解釈し、軍人の出現を想定したうえで、現役の武官を大臣職につけないようにするために、文民条項の導入を強く要求し、実現させた。  (6) それゆえ、芦田修正と文民条項は密接不可分の関係にあり、両者を切り離して解釈することは、すくなくとも憲法の成立経緯の観点からは、間違いである。  (7) 日本国政府は、文民条項の導入要求に関し、極東委員会でいかなる議論がなされていたかをまったく知らず、総司令部によっていわれるまま導入した。このような経緯は、まことにいびつであり、ある意味で無責任そのものであるといい得る。  以上の点をきちっと踏まえてこそ、9条と66条2項の正しい解釈がなされるといわなければならない。そのような視点から、政府解釈といわゆる学界の多数説なるものをみると、いかに制定経緯を無視してきたか、一目瞭然であろう。  まず政府は、自衛権については、概略、以下のように解釈する*151。

 ア.憲法は、自衛権を否定していない。  自衛権は、国が独立国である以上、その国が当然に保有する権利である。憲法はこれを否定していない。したがって、現行憲法のもとで、わが国が、自衛権をもっていることは、きわめて明白である。  イ.憲法は、戦争を放棄したが、自衛のため抗争を放棄していない。  (ア)戦争と武力の威嚇、武力の行使が放棄されるのは、「国際紛争を解決する手段としては」ということである。  (イ)他国から武力攻撃があった場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであって、国際紛争を解決することとは本質が違う。したがって、自国に対して武力攻撃が加えられた場合に国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない。

 こうして、かつて国内治安のためにも「武力」を行使することはできないと解釈していたのが、国土防衛の手段としては武力を行使することは、憲法違反ではないと緩やかな解釈になった。しかし、たとえ防衛手段であっても、「陸海空軍その他の戦力」を保持することはできない。ここに「戦力」とは、自衛のため必要最小限度を超えるものであって、自衛のため必要最小限度の実力(「自衛力」)を保持することは、憲法上、禁止されていない*152。自衛隊は、まさに自衛力そのものであって、当然に合憲の存在である。これが、政府の9条解釈の骨子である。  ここにおいて、既述したように、芦田修正はまったく考慮されていない。その結果、「戦力」にあらざる「自衛力」によって、他国からの武力侵攻に対して抗争を試みることになる。けれども、いまや最新の兵器体系を備え、世界有数の実力を誇るといわれている自衛隊を「陸海空軍その他の戦力」に該当しないと言い切ることは、常識的には困難である*153。 また政府の「文民」解釈は、以下のようである*154。

 憲法第66条第2項の文民とは、次に掲げる者以外の者をいう。  ア.旧陸海軍の職業軍人の経歴を有する者であって、軍国主義的思想に深く染まっていると考えられるもの  イ.自衛官の職にある者

 このように、旧軍と自衛隊とに分け、旧軍関係者については、「旧職業軍人の経歴を有する者であって軍国主義的思想に深く染まっていると考えられるもの」は文民に該当しないが、自衛隊については現在自衛官の職にある者は文民とはいえないものの、自衛官の職を辞すれば、思想とは無関係に文民に該当すると解している。政府解釈は、旧職業軍人と元自衛官とで差異を設けている点に一つの特色がある。かかる差異を設けたことに関し、政府は、次のように説明している*155。

 自衛隊は、旧陸海軍の組織と異なり、平和主義と民主主義を基調とする現憲法下における、国の独立と平和を守り、その安全を保つための組織であって、これに勤務したからといって軍国主義的思想に染まることはあり得ず、両者を同視すべきでない。

 かくして、文民条項がなぜ極東委員会で問題とされたかをまったく知らないまま、独自の解釈を試みたために、衆議院における修正はおろか、グローバル・スタンダードからみても、はなはだ的はずれなものになっている。衆議院における修正がそもそも「文民」の発祥になったのであるから、そのことを「研究」したうえで解釈がほどこされなければならない。また英文のcivirianを日本語に翻訳したのであるから、英文の意味を斟酌しなければならない。そうすれば、「現役の軍人以外の者」をいうとの結論に到達するはずである。*156。  もっとも、この時期、政府部内で武官との関係において文民の意味を考えようという動きがなかったわけではない。外交資料館所蔵の10月4日づけの『憲法草案貴族院修正案について』という文書には、「総務局総務課小林記」として、以下のような分析が残されている*157。

 (第六十六条第二項)の規定は今次公職追放になつた職業軍人の経歴を有するものの将来における大臣への就任を防止すること(を)当面の眼目としてゐる趣に解せられ初め裏から『武官たりしものは大臣の職に就くを得ない』といふ様な表現も考慮せられた趣であるが余りにもかかる表現では窮屈に過ぎ一般学生出身の軍人等を含むやの疑義も起る惧れあるので寧ろ弾力性のある現修正案の如き表現を選び本項の実際の適用に際し相当の融通性を持たせる含みをもつてシヴィリアンに対応する文民なる造語を行った趣である。将来日本に何等かの必要から武官的存在が復活した場合において本項がそれへの適用を眼ざしてゐるや否やについて明確を欠くが第2章戦争放棄との関係において大体かく広く解釈せらるべきものとされてゐる。

 この文書で、@文民条項の適用に関し、「文民」なる造語を作って相当の融通性をもたせようとしたことと、A将来、武官的存在が復活した場合において文民条項がそれに適用あるかどうかについて、大体、広く解釈されるべきものとされていることが指摘されている。@については、佐藤達夫文書にも「小委員会の意向(織田案)として、『シビリアン』ニ合フ、漠然トシテ置クヲ可トス」とのメモ書きがあり*158、シビリアンの解釈に弾力性をもたせようとしていたことが理解できる。そこでAが注目されるが、「武官的存在が復活した場合」に戦争放棄との関係で「広く解釈せられるべきも のとされてゐる」とは何を意味するだろうか。この頃すでに将来、武官的存在が出現することを予定しており、また「武官的存在」との関係でシビリアンを解釈しようと考えていたということであろう。ということは、この時点で、すでに軍隊ないし戦力の保持を前提にした考え方があったということを意味することにならないだろうか。  さて、憲法9条に関する学説を鳥瞰してみると、衆議院の修正→極東委員会での白熱した討議→文民条項の導入という関係に着目した解釈を展開している学説は、ほとんどみあたらない。それゆえ、「文民」に関しても、多くは政府とおなじく「過去において職業軍人の経歴をもっていない者」と解している。このような多数説の解釈に関し、貴族院小委員会で「文民」の造語に立ち会った宮澤教授は、皮肉をこめて、次のように批判する*159。    貴族院は、ひろく武官の職歴を有する者から国務大臣になる資格を奪うのは妥当ではないと考えて、政府の意見を排斥して、シヴィリヤンをそのまま「文民」と訳して66条2項とした。  ところが、解釈家たちは、「文民」をシヴィリヤンの意味と解してはその規定が無用になるというので、それを「武官の職歴を有しない者」の意と解している。すなわち、文民の規定の提案者が明白に否定したところの政府の意見を、ここで「解釈」の名において、生き返らせたのである。・・・  文民という言葉の作者が、文民は英語のシヴィリヤンの意味だというのに、文民はシヴィリヤンとはちがうと解すことも、むろん「解釈」に許された特権(?)なのであろうが、それにはそれだけの根拠が必要である。法文には「ろば」と書いてありその言葉によってasinusを意味するつもりであることが明白であるのに、「解釈」として、そこにいう「ろば」は「鹿」の意味だと主張することができるためには、それだけの合理的な根拠がなくてはなるまい。シヴリヤンと同じ意味の言葉として作られた文民という言葉にシヴィリヤンとはちがった意味を与えるためにも、同様でなくてはならない。この点について、通説の論者がほとんど明確な根拠を示していないのは、はなはだたよりない。

 もっとも、宮澤教授自身、小委員会で「シヴィリヤン」の語が導入されたのは、極東委員会における審議が契機であったことを知りうる立場にあったにもかかわらず、それを十分に詮索することなく、9条を非武装と解釈している*160のは、首肯できない。  以上、私は9条の成立過程を検証することにより、自衛のためであれば、戦力の保持は憲法上禁止されていないし、文民条項は、武官の存在を前提にして導入されたものであることに言及した。当時の政府当局者にとって、「文民」は難物だったようである。何度も答弁に立った金森は、後年、「私は過去において職業軍人であつてもかまわぬが、一般社会の見るとことにしたがつて職業軍人的な特性が無くなっている人で無くてはならぬと思う。」とあまりすっきりした定義をくだしていない*161。また佐藤達夫も、「憲法の問題として、一番いやだったのは文民の問題であった。」と告白している*162。けれども、既述したごとく、極東委員会での審議をつぶさに観察すれば、ごく素直に、しかももっとも正しいと思われる解釈がえられるのである。  もっともこのように、成立過程の検証を解釈に結びつけることに疑問を提起するむきもある。たとえば、長谷部恭男教授は、次のように述べる*163。

 起草者や立法者の考えは、たとえそれを知ることができたとしても、それによって現在の我々が拘束されるべき理由は乏しく、憲法思想史や比較法上の素材と同様、解釈の参考となるにすぎない。我々はむしろいかなる解釈が9条を憲法全体の構造と理念に整合的に位置づける最善の解釈といえるかを議論すべきであり、起草者の意思に従うべきだと主張する論者は、なぜ起草者の考えが最善の解釈といえるかを立証すべきである。

 そうだろうか。成立過程を無視して憲法の条文を解釈しようとする側にこそ、立証責任があるというべきではないだろうか。なぜならば、何度も言及したように、文民条項の導入が芦田修正と密接に関係のあることが明白になっているにもかかわらず、それを無視しようというのであれば、その説明責任を解釈者が負うべきは当然だからである。その意味で、宮澤教授の前記指摘が示唆的であるが、ここでは、東京大学名誉教授で、英米法学者として令名の高かった田中英夫の次の言葉を引いておこう*164。私には、こちらのほうがはるかに説得的であるように思われるからである。

 立法者が条文に与えようとしていた内容は、当該条文の持ちうる意味の一つを示すものであり、その意味で「解釈」に当たって十分参照されなければならない。これと異なる解釈をしようとする者は、なぜそういう解釈をするのが妥当なのかについて、実質的な理由を示すべきである。そういう作業なしに、立法過程の示すところと違う解釈を、これこそが文言の文理解釈上唯一絶対の結論であると説くのは、悪しき意味のドグマティーク以外の何ものでもないであろう。


*1 とりあえず、参議院事務局編『帝国憲法改正審議録〈戦争放棄編〉』(新日本法規出版、1952年)、宇都宮静男『憲法第9条の変遷と解釈』(有信堂、1969年)、清水伸『自衛隊と憲法』(朝雲新聞社、1969年)、同『自衛隊合憲論』(永田書房、1974年)、安澤喜一郎『起草および制定の事実に立脚した憲法第9条の解釈』(1981年、成文堂)、佐々木高雄『戦争放棄条項の成立経緯』(成文堂、1997年)などがあげられる。

*2 とりあえず、佐藤達夫「憲法第9条の成立過程」(『レファレンス』第92号、1958年9月)、犬丸秀雄「日本国憲法の戦争放棄条項成立の経緯に関する一考察」(『防衛法研究』創刊号、1977年5月)、同「日本国憲法戦争放棄条項起草経緯上の問題点」(『法令解説資料総覧』1982年2月号)、田中英夫「憲法9条の制定過程とその意味するもの」(法学セミナー増刊『日本の防衛と憲法』1981年3月)、青山武憲「わが『戦争放棄』条項の制定の経緯」(『法と秩序』1985年3月)、佐藤和男「憲法第9条の成立過程と解釈に関する国際法的考察」(『昭和史研究シリーズ第2号』、1981年4月)、Theodore McNelly,“General MacArthur and the Constitutional
Disarmament of Japan.”The Transactions of the Asiatic Society f Japan,Vol.17 (October,1982), Theodore McNelly,“The Renunciation of War in the Japanese  Constitution.”Political Sciense Quarterly 77(September 1962)などがあげられる。

*3 もっとも詳しいのは、佐々木高雄、前掲書であるが、極東委員会における議事録の詳細が記述されていない。

*4 拙稿「世界の憲法トレンドと立憲主義−おもに日本国憲法に規定のない若干の項目を素材として」(比較憲法学会『比較憲法学研究』第15号、2003年10月)。なお拙稿「世界の現行憲法と平和主義条項」(『駒澤大学法学部研究紀要』第60号、2002年3月)。

*5 拙稿「世界の憲法トレンドと立憲主義ーおもに日本国憲法に規定のない若干の項目を素材として」(比較憲法学会『比較憲法学研究』第15号、2003年10月)。

*6 平和主義に関する私の比較憲法的考察については、前記注(3)にあげたもののほか、拙著『各国憲法制度の比較研究』(成文堂、1984年)所収「平和主義と各国憲法」、同『国の防衛と法』(学陽書房、1975年)所収「世界各国憲法と平和主義」、同『自衛権』(学陽書房、1978年)所収「比較憲法上からみたわが国防衛法制の特色」、同「世界各国憲法における国防・軍事・平和主義規定」(『レファレンス』第31巻第8号−第10号、1981年8月号−10月号)を参照されたい。

*7 私自身の著書として、『日本国憲法の誕生を検証する』(学陽書房、1986年)とくに第U「憲法9条成立経緯のすべて」、『よくわかる平成憲法講座』(TBSブリタニカ、1995年)とくに第3章「憲法第9条誕生のいきさつ」、『日本国憲法はこうして生まれた』(中公文庫、2000年)、The Constitution and the National Defense Law
System in Japan,Seibundo,1987、Ten Days Inside General Headquartes(GHQ),
Seibundo,1989などがある。

*8 拙稿「「日本国憲法成立過程における極東委員会の役割と限界(1)−(6)」(『駒澤大学法学部政治学論集』第30号−『駒澤法学』第3巻第1号)。

*9 以下の諸説については、おもに拙著『日本国憲法はこうして生まれた』(中公文庫、2000年)196−218頁をベースにしている。また、憲法調査会『憲法制定の経過に関する小委員会報告書』(憲法調査会報告書付属文書第2号、1964年)323−336頁、佐々木高雄、前掲書第2章「戦争放棄条項の発案者について」も参照。

*10 憲法調査会、前掲書、332−334頁。また1951年1月日、ロスアンゼルスで開かれた在郷軍人会の会合においても、「賢明な老首相・幣原が自分のところへやって来て、日本人自身を救うためには、国際的手段としての戦争を廃止すべきであると語った」と述べている。Representative Speeches of General of the Army Douglas MacArthur,
U.S.Printing Office,1964.

*11 憲法調査会、前掲書、335−336頁。

*12 Douglas MacArthur,Reminiscences,McGraw/Hill Book Company,1964,pp.302-303.

*13 Courtney Whitney,MacArthur:His Rendevous with History,Alfred A.Knopf,1956,pp.257-259.

*14 幣原喜重郎『外交50年』(読売新聞社、1951年)213−214頁。

*15 「幣原平和財団発起趣意書」(幣原平和財団『幣原喜重郎』1955年)3頁。

*16 自由党憲法調査会・特別資料11『日本国憲法の草案について』(1954年9月)
9−10頁。

*17 憲資・総第9号『帝国憲法改正諸案及び関係文書(1)』(1957年、憲法調査会)11−12頁。

*18 芦田均『芦田日記第1巻』(岩波書店、1986年)78−79頁。

*19 憲法調査会、前掲書、324−325頁。

*20 同書、323−324頁。

*21 Theodore McNelly,General MacArthur and the Constitutional Disarmament of
Japan.,in The Transactions of the Asian Society of Japan,Third Series,Vol.17
(October,1982).Theodore McNelly,The Origins of Japan's Democratic Constitution,University Press of America,2000,university Press of America,p. 109-110.

*22 このインタビューは、1984年11月13日、マサチューセッツ州郊外にあるヒー スのケーディス氏宅にておこなわれた。その内容については、以下を参照されたい。 拙著『日本国憲法の誕生を検証する』(学陽書房、1986年)45頁。Osamu Nishi,Ten Days Inside General Headquarters(GHQ),p.48.

*23 拙稿「総司令部案における人と思想」(『比較憲法学研究』第2号、1990年9月発行)参照。

*24 大森実『戦争秘史5 マッカーサーの憲法』(講談社、1975年)259頁。

*25 注20に同じ。

*26 幣原首相の発言「軍の規定を憲法の中に置くことは、連合国はこの規定について必ずめんどうなことを言うにきまっておる。将来軍ができるということを前提として憲法の規定を置いておくということは今日としては問題になるのではないかと心配する。この条文を置くがために司令部との交渉に1、2箇月ひつかかつてしまいはしないか。」入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』(第一法規、1976年)72頁。

*27 柴垣隆「憲法問題と幣原喜重郎」(『大凡』第3輯、1964年3月発行)所収。なお拙著『日本国憲法はこうして生まれた』209−214頁には、この辺の事情を幣原首相から直接に聞いたという幣原道太郎、増田甲子七、押谷富三、木内四郎の諸氏に対するインタビューの内容が収められている。いずれも、幣原首相発案説を否定している。

*28 以下は、1984年3月20日、私(西)の村田聖明氏に対するインタビューによる。

*29 拙著『国の防衛と法』(学陽書房、1975年)101頁。

*30 『日本経済新聞』1950年1月1日づけ。

*31 1986年3月26日のリゾーへの私のインタビューによる。Osamu Nishi,ibid.,p.101.

*32 中川剛「憲法第9条の正体−マッカーサーの錯誤はなぜ起きたか」(『諸君』1991年9月号)。ただし、中川教授は、そこにはマッカーサーに二つの錯誤があったと断じる。すなわち一つには、マッカーサーが軍人らしい率直な論理で、国家政策としての戦争が放棄できるのならば、自衛・制裁のための戦争の放棄もまた憲法に規定できると考え、これが主権国家に矛盾することに思いいたらなかったこと、二つに、独立の準備期に入っていたフィリピンの場合と占領による軍政下にあって、独立などいまだ予定されてもいなかった状態で憲法が制定された日本の場合との違いに気づいていなかったことである。

*33 Dale M.Hellegers,We the Japanese People,World War Uand the Origins of the Japanese Constitution,Volume Two, Stanford University Press,2001,p.576.

*34 拙稿「日本国憲法の記述に関する連合国総司令部の検閲について(1)、(2)」(『駒澤大学法学部研究紀要第23号、第24号』1986年3月30日、同年12月20日発行)所収。

*35 江藤淳『落葉の掃き寄せ1946年憲法の拘束』(文藝春秋、1988年)394−395頁。

*36 訳は、憲法調査会、前掲書、639−641頁による。

*37 拙著『日本国憲法の誕生を検証する』51頁。

*38 エラマン・メモは、チャールズ・L.ケーディス、アルフレッド・R.ハッシーおよびマイロ・E.ラウエルで構成する運営委員会の秘書役として参画していたルース・エラマン(Ruth Ellerman)によって記録されたものである。このメモには、総司令部案を作成するために交わされた民政局内部での会話などが克明に記されており、非常に貴重である。ただしハンドライティングのためかなり読みにくい。この読みにくさにもかかわらず、邦訳を試みたものに、次のものがある。村川一郎・初谷良彦『日本国憲法制定秘史−GHQ秘密作業「エラマン・ノート開封」−』(第一法規、1994年)、笹川隆太郎・布田勉・ヴィクター・カーペンター「エラマン手帳(E)メモ(その1)−(その3)−『憲法改正要綱』の公表に先立つ徹宵審議の民政局側記録」(『石巻専修大学経営学研究』第6巻第1号−第7巻第2号)。なおエラマンは、当時30歳で、シンシナシティ大学を「成績優秀」で卒業、翌年にはシカゴ大学で修士号を取得している。戦時経済委員会、ロンドンのアメリカ大使館にも勤務したキャリア・ウーマンであった。鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(創元社、1995年)43−44頁。ハッシーと結婚したが、のちに離婚した。

*39 Hussey Papers 19-c-4-15,19-c-4-16.村川・初谷、前掲書、65−66頁。

*40 1984年7月26日のインタビューによる。拙著、前掲書、95頁。

*41 1984年6月16日のインタビューによる。拙著、前掲書、56頁。

*42 拙著『日本国憲法はこうして生まれた』151頁。

*43 ハッシー・ノートには手書きで「憲法改正のなかに『入れなければならない』(
must)ものとして最高司令官によって提示された3つの基本原則」とあり、ラウエル文書には、「2月4日ころ」とある。高柳賢三・大友一郎・田中英夫編著『日本国憲法制定の過程』(有斐閣、1972年)98−101頁。

*44 Wheeler-Benett,Information on the Renunciation of War,1928,p.174.

*45 犬丸秀雄監修、安田寛・村川一郎・西修・大越康夫著『日本国憲法制定の経緯−連合国総司令部の憲法文書による−』(第一法規、1989年)まえがき(犬丸教授執筆)。

*46 犬丸秀雄「ハッシー文書の前文・戦争放棄・天皇の原案とそれに関する若干の考察」(『憲法研究』第11号、1975年10月)。

*47 『サンケイ新聞』1975年6月24日づけ。

*48 田中英夫『憲法制定過程覚え書』(有斐閣、1979年)101−104頁。

*49 犬丸秀雄「日本国憲法戦争放棄条項経緯上の問題点−ディス書簡を通じて−」(『法令解説葺総覧』第30号、1982年2月号所収)、同「“戦争放棄”の起草者・補完」(『法学セミナ−』1982年11月号所収)。

*50 1985年10月18日づけ。

*51 東京大学所蔵『松本文書』No.789(「機密」)。

*52 Hussy Papers 15-c-4-32.

*53 1986年1月28日づけ。

*54 Dale M.Hellegers,ibid.,pp.578-579.

*55 佐々木高雄、前掲書、244−245頁。

*56 ケーディスは、当初こそ口を重くしていたが、その後、日本の多くの新聞、雑誌のみならず、テレビ各局で同様の発言をくり返している。しかし、なぜか多くの憲法学者は、ケーディスの言説に耳を傾けようとしない。

*57 自由党憲法調査会、前掲資料、11頁。

*58 『芦田均日記』(岩波書店、1986年)79頁。

*59 人江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の問題点』(第一法規、1976年)203頁。なお、石黒武重氏は、このとき法制局長官として閣議に列席、私(西)へのインタビュー(1985年8月8日)において、日づけは忘れたが、どうせいまから持つとしても、錫のような、おもちゃの兵隊みたいものだから、それならいっそのこと持たない方がよい、と発言したことを覚えていると語った。なおみよ。石黒武重「法制局での私の思い出」(内閣法制局百年史編集委員会『内閣法制局の回想−創設百年記念』1985年)2頁。

*60 Hussey Papers No.20. Ellerman report of conference between General Whitney and Dr.Matsumoto of 22 February 1946.Original.なおみよ。高柳賢三・大友一郎・田中英夫編 著『日本国憲法制定の過程−連合国総司令部側の記録による−T 原文と解説』(有斐閣、1972年)393頁。同資料によれば、ホイットニー局長の発言は次のようになっている。「この原則(注・.戦争放棄)の宣明は、異例でかつ劇的とされるべきです。私たちが、この原則を、憲法案の第1章ではなく第2章としたのは、天皇および天皇の地位が日本国民の心の中に占めていることに敬意を表してのことです。私自身としては、この原則が決定的重要性をもつことにかんがみ、戦争の放棄条項を新憲法の第1章におくべきだと思っています。」また、同席したハッシー中佐は、「憲法の本体に組みこむことによって、真に力強いものになると考えています。」と述べている。

*61 Ray A.Moore & Donald L.Robinson,Partners for Democracy -Crafting the New Japanese State under MacArthur,Oxford University Oress,2002,p.128.

*62 佐藤達夫・佐藤功補訂『日本国憲法成立史 第3巻』(有斐閣、1994年)164−165頁。なお、このときに携行し、徹夜の折衝で変遷した日本語案文および英文については、笹川隆太郎・布田勉「憲法改正草案要綱の成立の経緯−日本側携行案の英文案を中心とする再検討」(『石巻専修大学経営学研究(1)−(5)』第3巻第2号−第5巻第2号)に詳細な分析がある。

*63 佐々木教授は、「3月2日案の表現は、(松本大臣が)修文作業を進めるうちに、意図せず生じたものにすぎない。」と断じている。佐々木、前掲書、307頁。

*64 入江、前掲書、209頁。

*65 佐藤達夫・佐藤功補訂、前掲書、115−116頁。

*66 笹川・布田、前掲論文(2)、111頁。

*67 村川一郎編著『帝国憲法改正案議事録』国書刊行会、1986年)13−15頁。

*68 2月26日にワシントンにて極東委員会の第1回会合が開かれたことを想起する必要がある。

*69 1985年9月16日のインタビューによる。なおみよ。諸橋襄「枢密院に於ける日本国憲法審議(1)」(『自治研究』第31巻5号)39頁、自由民主党憲法調査会憲法成立事情調査小委員会『憲法成立事情調査小委員会会議録−講師諸橋襄氏−』(1985年3月11日)19頁。

*70 Hussey Papers 27-A-1-1〜27-A-1-9.犬丸秀雄監修、前掲書、174−193。

*71 The Japanese Constitution A Documentary History of its Framing and Adoption,1945-47,
 Edited by Ray Moore and Donald L.Robinson,Princeton University Press,1998,Biographical Notes.

*72 これらの会談の文書は、国会図書館の佐藤達夫文書、外務省外交資料館に所蔵されている。なおみよ。佐藤達夫・佐藤功補訂、前掲書、286−325頁、江藤淳責任編集『占領史録 第B巻 憲法制定経過』(講談社、1982年)293−320頁。

*73 佐藤達夫・佐藤功補訂、前掲書、241頁。

*74 「改正憲法ニ付テ」(昭和21.4.5条約局)。外交資料館番号0454。江藤責任編集、前掲書、288−291頁。

*75 佐藤達夫・佐藤功補訂、前掲書、327頁。

*76 これらのドキュメントは、国立公文書館(井手成三文書)に保管されている。そこには4月から6月にかけて逐条的にきわめて詳細な説明が準備されている。

*77 以下、枢密院の議事録はアメリカ合衆国国立公文書館ワシントン国家記録センターにて収集してきたものを参照した。日本の国立公文書館には、『憲法改正草案枢密院審査委員会審査録(未定稿)』が保管されている。単行本としては、村川一郎『帝国憲法改正案議事録』国書刊行会、1986年)がある。

*78 井手文書におけるこの括弧が、いつ誰によって付されたのかは不明。

*79 『官報号外昭和21年6月26日衆議院議事速記録第5号』。

*80 『官報号外昭和21年6月27日衆議院議事速記録第6号』。

*81 森清監訳、村川一郎・西修共訳『憲法改正小委員会秘密議事録』(第一法規、1983年)417頁。なお社会党は、1946年2月24日に『憲法改正案』を作成、そこでは、「目標」として「平和国家を建設することを以て、従来の権力国家観を一掃し、国家は国民の福利増進を図る主体たることを明かにす」の文言が示されていた。

*82 『官報号外昭和21年6月29日衆議院議事速記録第8号』。

*83 たとえばみよ。『朝日新聞』1946年1月27日づけ。

*84 日本共産党出版部『前衛』第1巻第8号(1946年7月1日)。

*85 山口富男「『日本共産党憲法草案』(1946年)の歴史的意義ーいまなぜ光をあてるかー」(日本共産党中央委員会付属社会科学研究所『憲法の原点』1993年所収)。

*86 吉田首相は、6月26日の衆議院本会議における原夫次郎議員に対する答弁で、「9条は直接には自衛権を否定していないが、2項で一切の軍備と交戦権を認めない結果、自衛権としての戦争ができなくなる」と述べている。『官報号外昭和21年6月27日 衆議院議事速記録第6号』。

*87 中部日本新聞社編『日本憲法の分析』(黎明書房、1954年)84−85頁。

*88 1954年6月に公布された自衛隊法88条には、防衛出動を命ぜられた自衛隊は、「わが国を防衛するため、必要な武力を行使することができる。」と規定されている。

*89 たとえば、1946年11月6日づけの同党機関誌『社会新聞』では日本国憲法の公布記念号を特集しているが、衆議院の本会議および特別委員会で活躍した原彪議員は「われわれは社会主義の理想を憲法に謳ふことを主張したのであつた、それはできなかつたとはいえ、民主主義の道はそれへの接近を可能にした、さらに近い将来には、勤労階級の窮乏からの自由を即ち社会主義的理想を、実現しなければならない」と記述しているし、翌年5月1日発行の『社会思潮』で同議員は、「新憲法の発足」という論稿を寄せ、「(日本国憲法に)なお二、三の点においてわれわれの主張が容れられなかった事実を顧みるとき、これが完成を後日に期している所以である。」と述べている。また小委員会でも積極的に発言した森戸辰男議員は1947年9月発行の『中央討論』で「日本社会党とイデオロギー」を執筆、「新憲法が民主主義の徹底、わけても経済的基本的人権の規定においていまだ不充分であることを国民に訴え、適当な時機を捉えてこれが改正を図るべきである。」と明言している。

*90 『第90帝国議会衆議院帝国憲法改正案委員小委員会速記録』(衆議院事務局、1995年9月)。なおその背景などについては、9月30日づけの各紙に詳しい。

*91 『産経新聞』1995年9月30日づけ。

*92 1995年9月30日づけの各紙を参照。

*93 『第90帝国議会衆議院帝国憲法改正案委員小委員会速記録』85頁。

*94 同上書、90頁。

*95 同上書、141−142頁。

*96 総司令部との関係でも、「デリケート」と考えられたためなのか、この金森発言は、英訳されていない。

*97 同上書、86頁。

*98 同上書、79頁。

*99 同上書、190頁。

*100 同上書、194頁。

*101 同上書、194頁。

*102 憲法調査会『憲法調査会第7回総会議事録』(1964年)90−91頁。芦田が「当該修正を提案したのは、侵略戦争遂行のための戦力不保持であって、自衛のためならば戦力を保有できるようにするためであった」と最初におおやけにしたのは、1951年1月4日の『毎日新聞』紙上であったといわれている。

*103 以上につき、進藤榮一・下河辺元春編『芦田日記第一巻』(岩波書店、1986年)「解題−日記と人と生涯−」(進藤榮一教授執筆)。

*104 芦田均『新憲法解釈』(ダイヤモンド社、1946年)36頁。

*105 『帝国憲法改正案委員会議録(速記)第21回』。

*106 芦田、前掲書、33頁。

*107 入江、前掲書、384頁。ただし、入江はこの文章にすぐ続けて、「しかしこの心理的経過は、芦田本人に聞いてみなければなりません。」と記し、あくまでも自分の“想像”であると断っている。

*108 入江、前掲書、387頁。

*109 佐藤達夫『日本国憲法誕生記』(中公文庫、1999年)137−138頁。同著・佐藤功補訂『日本国憲法成立史 第四巻』(有斐閣、1994年)788頁注(3)、憲法調査会『憲法調査会第7回総会議事録』(1957年)108−109頁など。

*110 佐藤達夫の簡単なバック・グラウンドについては、佐藤達夫『日本国憲法誕生記』243頁以下の私(西)の「解説」を参照されたい。

*111 佐藤功「憲法第九条の成立過程における『芦田修正』について−その事実と解釈−」(『東海法学』第1号)所収。

*112 拙著『日本国憲法の誕生を検証する』(学陽書房、1986年)157頁。

*113 Charles L.Kades,The American Role in Revising Japan's Imperial Constitution, in Political Science Quarterly,Summer 1989,p.236.

*114佐々木高雄、前掲書、365−366頁には、芦田・ケーディス会談を扱った10の論稿をあげつつも、結論として、客観的な資料がないことから会談はケーディスの思い違いだったのではないかと推論している。

*115 佐藤達夫著・佐藤功補訂『日本国憲法成立史第四巻』(有斐閣、1994年)792頁には「芦田氏はケーディスを訪問し、修正案について会談した。」と明記されている。

*116 なお、芦田修正がなされた頃、総司令部内にあっては、自衛力の保持を容認する雰囲気が支配的であったという。憲法調査会『憲法制定の経過に関する小委員会報告書』(1964年)504−505頁。

*117 『官報号外 昭和21年8月25日 衆議院議事速記録第35号』。

*118 『官報号外 昭和21年8月27日 貴族院議事速記録第23号』。

*119 高柳賢三『天皇・憲法第九条』(有紀書房、1953年)。

*120 『官報号外 昭和21年8月28日 貴族院議事速記録第24号』。

*121 富原薫『憲法制定時の社会的背景』(憲法改正記念刊行会、1964年)350−352頁。

*122 『官報号外 昭和21年8月30日 貴族院議事速記録第26号』。

*123 もっとも、佐々木惣一『日本国憲法論』(有斐閣、1949年)の初版本には、「わが国は、世界の人間が、平和を愛し、公正と信義とにより行動するものである、ということに依頼して、われらの安全と生存を保持しよう、と決意した。そして、戦争と武力とを放棄することを決意したのである。」(同書、504頁)と記述されていたにすぎないが、1952年に発行された同『改訂日本国憲法論』には、「国際関係複雑を極め、諸国間の対立激甚を極める今日、いかなる場合にも、いかなる国家よりも、侵略をうけることがないとは限らぬ。そういう場合に、国家としては、自己の存在を防衛するの態度をとるの必要を思うことがあろう。これに備えるものとして戦力を保持することは、国際紛争を解決するの手段として戦力を保持することではないから、憲法はこれを禁じていない。このことは、わが国が世界平和を念願としている、ということと何ら矛盾するものではない。これは、今日いずれの国家も世界平和を希求していること、何人も疑わないにもかかわらず、戦力を保持しているのと同じである。」(同書、520頁)と書かれている。

*124 MEMORANDUM OF CONVERSATION,October 10,1945,Hussey Papers,21-A-2-1.犬丸秀雄監修、安田寛・村川一郎・西修、大越康夫著、前掲書、5−11頁。ほかにみよ。憲資総第1号『日本の新憲法』1956年、23−24頁、憲資総第36号『日本の憲法改正に対して1945年に近衛公がなした寄与に関する覚書』1959年、2−3頁。アチソンは、帝国憲法の問題点として、文民条項のほかに、衆議院が貴族院に比して、権限が弱いこと、国民の人権が厳格に制限されていること、貴族院はいたって非民主的であること、司法権の独立が保障されていないことなどを指摘している。

*125 拙稿「日本国憲法成立過程における極東委員会の役割と限界(4)」(『駒澤法学』 第2巻第3号)所収。

*126 Incoming Message 7 July 1946,FROM:Washington(The Joint Chief of Staff)TO:CINCAFPAC  (MacArthur) NR:WCI25073.

*127 『国務大臣の選任に関する件』(21、8、19)外務省文書(極秘)。なおみよ。 拙稿「日本国憲法成立過程における極東委員会の役割と限界(5)(『駒澤法学』第2巻 第4号)所収。

*128 もっとも、田中英夫「憲法9条の制定経過とその意味するもの」(法学セミナー増刊『日本の防衛と憲法』1981年3月発行)所収、拙稿「『文民』の意味について」(拙著『自衛権』学陽書房、1978年)所収などには、芦田修正と文民条項の関連を指摘されている。

*129 「日本国憲法成立過程における極東委員会の役割と限界(6)」(『駒澤法学』第3巻第1号)所収。

*130 佐藤達夫著・佐藤功補訂、前掲書、928−930頁に佐藤功教授の手によって、拙稿「連合国側は自衛力を容認−憲法制定過程に新事実」(『This is 読売』1992年3月号)が簡にして要を得た形でまとめられている。

*131 Incoming Message From;Wash(Asst Sec War Petersen)Nr.W 81154 Dtd. 22 Sep.

*132 FEC-087/8,25 September 1946.

*133 佐藤達夫著・佐藤功補訂、前掲書、921頁。

*134 鶴見紘『白州次郎の日本国憲法』(ゆまに書房、1989年)176頁。

*135 1946年3月7日の『白州日記』は、2月13日の総司令部案提示後の動きをふまえ、
「斯ノ如クシテコノ敗戦最露出ノ憲法案ハ生ル『今に見ていろ』ト云フ気抑へ切レスヒソカニ涙ス。」と記している。江藤淳責任編集、前掲書、236頁。近年、白州の生き方を学ぼうという本が相次いで出版されている。コロナ・ブックス『白州次郎』(平凡社、1999年)、馬場啓一『白州次郎の生き方』(講談社、1999年)、青柳恵介『風の男白州次郎』(新潮社、2000年)、KAWADE夢ブックス『白州次郎日本で一番カッコイイ男』(河出書房新社、2000年)、など。なお、白州次郎著『プリンシプルのない日本』(エイアンドエフ、2001年)も参考になる。

*136 尚友倶楽部『貴族院における審議資料橋本実斐委員メモ(水野勝邦氏の解説)』(非売品、1973年)145頁。

*137 『帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第22号』。

*138 『憲法改正案第15条及び第66条の修正に関しケーディス大佐と会談の件』昭21.9.27、政、政。

*139 Department of State,Incoming Teligram,From:London Dated:October 9,740.0019 Control(Japan)/
 10-946.

*140 参議院事務局『第90帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員小委員会筆記要旨』(1996年1月)13頁以下。

*141 このいきさつについては、9月28日の第1回小委員会で、冒頭、金森国務大臣から説明があったが、政府の最高責任者から事情を聞こうということになったのである。
 なお、金森大臣の説明は、次のようであった。「24日、GHQノ『ホイットニ−』ト『ケーディス』ガ首相ヲ訪ネテ修正ヲ要求『実質的ナモノデハナイカラ受入レテ呉レ、此ノコトハ新聞ニモ書クナ、内容ニ付テモ余リ云フナ、ドウシテモ云ハネバナラナイトキハGHQノ希望ニヨルモノダト云ッテ欲シイ。本当ハGHQ以外ノ所カラ来タモノデアル』ト云ッテ英訳(英文は省略−西)ヲ加ヘタ英文ヲ手交シタ。」

*142  この点に関し、当時、小委員会に委員として参加していた宮澤俊義は、「文民誕生の由来」という論稿で、次のように述べている。「そもそも英語でシヴィリヤンというのは、軍人以外の人の意味で、武官の経歴を有しない者の意味ではない。武官の経歴を有する者でも、武官を退けば、シヴィリヤンなのである。だから『国務大臣はシヴィリヤンでなければならない』という規定を入れろとされたのに対し、『国務大臣は武官の経歴を有しない者でなければならない』と定めるのは、注文された範囲より以上に出て国務大臣になる資格を制限しようというものである。たとえていえば、5だけ制限しろと注文されたのに対し10制限しようとするものである。総司令部の注文に応じて行う修正である以上、その注文の範囲だけ修正すればいいので、それ以上におよぶ必要はない。政府の意見のように定めることは、必要でないばかりでなく、妥当でもない。宮澤俊義『コンメンタール日本国憲法別冊付録』(日本評論新社、1955年)329頁。

*143 『憲法改正案第59条及び第66条の修正に関する件』昭和21年10月2日終連政政(外交資料文書0051)。

*144 『帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第24号』。

*145 『産経新聞』1988年9月2日づけおよび9月3日づけ。

*146 もっとも、日本国政府は、これによって意味の変更があったとは考えておらず、金森国務大臣は、10月19日の枢密院の第1回審査委員会で、貴族院におけるこの修正を「全然字句だけの者である。」と説明している。佐藤達夫著・佐藤功補訂、前掲書、993頁。

*147 『帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第24号』。

*148 『官報号外 昭和21年10月6日 貴族院議事速記録第39号』。

*149 佐藤達夫著・佐藤功補訂、前掲書、995頁。

*150 アメリカの国立公文書館ワシントン国家記録センターによる枢密院の議事録、および佐藤達夫著・佐藤功補訂、前掲書、997−998頁による。なお、諸橋の記録によれば、(芦田修正によって)加わったものは、「云わば枕詞で、従前と趣旨に於て何等変更はない。」と答弁されている。諸橋襄「枢密院に於ける日本国憲法審議」(『自治研究』第31巻第8号)69−70頁。

*151 1954年12月22日の衆議院予算委員会(鳩山内閣の統一見解)。

*152 1972年11月13日の参議院予算委員会(政府統一見解)。

*153 拙稿「『憲法9条解釈』が孕(はら)む致命的欠陥」(『中央公論』2003年9月号)。

*154 衆議院予算委員会理事会配布資料内閣法制局作成(1973年12月7日)。

*155 同上。

*156 拙著『自衛権』(学陽書房、1978年)49頁。

*157 この「小林」は、のちにカルカッタ総領事、スーダン大使、ネパール大使などを務めた小林春尚のことで、1975年9月に56歳で亡くなった。『産経新聞』1991年3月31日づけによる。

*158 『文民に関する10月2、3日付メモ』(佐藤達夫文書)。

*159 宮澤俊義、前掲書、333−334頁。

*160 宮澤俊義著、芦部信義補訂『全訂日本国憲法』(日本評論社、1978年)173頁。

*161 金森徳次郎『憲法うらおもて』(学陽書房、1962年)78頁。

*162 佐藤達夫『日本国憲法誕生記』(中公文庫、1999年)170頁。

*163 長谷部恭男『憲法』(新世社、1996年)60−61頁。

*164 田中英夫、前掲書、−頁。


*本稿は、『駒澤大学法学部研究紀要第62号』に寄稿したものの元原稿である。最終的に拙著『日本国憲法成立過程の研究』(成文堂、2004年3月刊行)に掲載したが、最終稿と若干、異なる部分があることをご了解賜りたい。

追記本稿でしばしば登場した金森徳次郎の次の言葉をつけ加えておきたい。

第一の重要点は日本は自衛のための戦争をする権利がるか否かの点だ。侵略戦争をしてはならぬことはよくわかるが、自衛戦争も出来なくなつているのか。これは日本の独立にも関係する重大論点であるのに賛否両論があるようで悲しい。私の意見は極めて簡単だ。すなわち侵略戦争をすることは何等理論上の制限はないのである。そのことは憲法第九条第一項の明文に国権の発動たる戦争は「国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」とあることによつて明らかだ。全部的に放棄するのではなくて、紛争解決の手段としてだけ放棄しているのである。それであるのに解釈家のあるものは無理な解釈をして絶対的放棄をしているように説くのは何としてもわからぬ、かつそれは国民を惑わすものである。・・・三月四日の日米両国関係者の会議の結果大略現在のような相対的放棄に変つたのである。この変化のあとを顧みない人が自衛戦争権がないと誤解しているのであろう。・・・(交戦権との関係で)第一に一項では堂々と侵略戦争を放棄していながら、二項でまた重ねて一切戦争はしませんというような表示は脳味噌のおかしい人でなければ出来ないのだ。(傍線は西)金森徳次郎『憲法うらおもて』(学陽書房、1962年)5−8頁。なお私の近稿「憲法と自衛隊の半世紀ー政府解釈の問題点を中心にー」(安田寛ほか『我が国防衛法制の半世紀』内外出版、2004年12月刊行)所収参照。